英雄の誕生、太極拳はなぜ無敵なのか?

元明時代、最も有名な道士は張三豊(ちょうさんぽう)であり、彼の最も有名な武道の技は太極拳でした。

中国武術は奥深く、外家拳と内家拳に分けられます。少林寺の外家拳は力強いことで知られていますが、張三豊によって、ゆっくりとした、円滑な内家拳法が誕生し、太極拳とも呼ばれました。いったい、この拳法はどのようにして生まれたのでしょうか?

古代において、道士は武術と心性を両方修練する伝統があったのです。最初に内家拳を記録しているのは、「王征南墓志銘」と呼ばれる文献で、70歳の張三豊が武当山で修行していたとき、ある日の夜、夢で武當山の主神である玄武大帝が彼の前に現れ、優れた拳法を彼に伝授しました。翌日、張三豊は100人以上の盗賊に襲われましたが、彼は非常にゆっくりで、穏やかな拳と掌を使って、100人と戦うことができたと言い伝えられています。

70歳なのに、百人の壮漢を素手で打ち負かすことは、内家拳術の威力を誇示したことになります。太極拳の後継者である黄百家は、「内家拳法」の中で、張三豊は少林寺の武術にも精通していましたが、その外家拳とは全く異なる武当太極拳を創り出したと述べています。太極拳は、仏教と道教の両方の武術の精華を融合し、静で動を制し、柔で剛を克服することができて、世界で唯一無二の武術となったのです。

張三豊の後、明清時代の2人の伝承者も、歴史に武学の奇跡を残しました。1人は明朝嘉靖(1522年-1566年)年間の張松溪(ちょうしょうけい)です。清の『寧波府志』によれば、彼は文人のような謙虚でやせた容姿で、誰かが武術を競いに来ると、いつも寛容をもって避け、どうしても避けられなくなった場合にのみ応戦したと言います。ある時、張松溪は座って少林寺の僧と対戦しました。僧侶は飛び蹴りを放ってきましたが、張松溪は横に身をかわし、手を上げるだけで僧侶を遠くに投げ飛ばし、僧侶は地面に倒れて重傷を負いました。70歳になっても、張松溪は数百キロの岩を3つ、素手で割ることができたと伝わっています。

もう1人は清朝初期(17世紀初頭)の王征南(おうせいなん)です。墓志銘によると、王征南は若いころ軍に入隊し、敵軍に捕らえられて逃走しました。看守の数人の兵士が必死に追いかけてきましたが、何故かわけもなく倒れてしまったと言います。またある時、王征南は苦力(クーリー:肉体労働者)として働かされたため、兵士に逮捕されました。必死に懇願しても、釈放してもらえないので、仕方なく運んでいた重い物を捨てて戦いました。兵士たちは刀を振りかざして襲いかかりましたが、彼は素手で防ぎ、兵士たちは武器を落とし、次々と倒れたと言います。

強力な太極拳はどのように練習されるのでしょうか?太極拳を練習する人は、まず自分の体と心を磨く修行に入ります。張三豊は著作で述べていますが、太極拳を練習するためには、まず太極の奥義を理解する必要があります。太極拳の威力は速さや力の強さではなく、別の空間において太極の異なる能力を修行します。攻撃するとき、意識は、拳の動きの先にあり、意志を働かせて拳法の力を発揮し、相手を倒し、「四斤の力で千斤を動かす:僅かな力で重きを動かす」境地に達するのです。(日本には相手の力を利用して相手を倒す、大東流合気がありますが、それに近いかも知れません)

実際、太極拳は神から人間へ伝授されたものなのです。道家の伝承は主に単伝、口伝承のため、太極拳の奥義は人に知られていませんでした。歴史の記録によれば、太極拳が王征南に伝わった際、彼はその武技を黄百家に伝授しました。しかし、黄氏は一生を通じて適した伝承者を見つけることができず、太極拳は『広陵散』のように「絶技」(消えた技)として終わってしまったのです。

今日の太極拳は単なる動作だけが残り、心法が伝えられていないため、より強い力を発揮できません。しかし、太極拳のかつての栄光は、この世界に神が残した伝説を思い出させるのですね。

柳笛