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手仕事礼賛

手と心で生きる

私はポパイルの「キッチン・マジシャン」(アメリカで1970年代に人気だった多機能調理器具)のことを考えていました。

ポットロースト(肉と根菜の煮込み料理)用にジャガイモやニンジン、パースニップ(白ニンジンのような根菜)を刻んでいるときに、鋭い包丁を使っているにもかかわらず、つい心が別のところに飛んでしまいました。もしここが1970年代で、私が中西部の家庭料理人だったら、こうした根菜類をまるでテニスボールを練習用マシンに放り込むように「キッチン・マジシャン」に入れていただけでしょう。パースニップを入れれば、シチュー用の角切りが出てくるんです。シンプル! 早い! 簡単! しかもお値段たったの49.99ドル。でも待ってください、今夜限りの特典として、「ポパイル・ポケット・フィッシャーマン」(携帯釣り道具)もわずか9.99ドルで付けちゃいます。

料理中に自分の心がどこへ向かって飛んでいくのか、自分でも不思議です。

でも、私の「手」は決してさまよいません。そして、これこそが私の気づきの原点です。私は「キッチン・マジシャン」も「ベジ・オ・マチック」(手動スライサー)も「チョップ・オ・マチック」(刻み機)も持ったことがありません。なぜなら、私は手作業には本質的な価値があると信じているからです。庭でも、農場でも、そしてとりわけ台所でも。私はすべてを手で下ごしらえし、オーブンのタイマーは使いません。棚にスロークッカーはありません。私のレシピを聞いてくる人はたいてい、最後の決定的な質問で困惑します。

「これ、どのくらい煮込むの?」

「火が通るまでです」

「どうやって分かるの?」

「チェックするんです」

「どうやって?」

「手で」

「でも、どうやってそれを判断するの?」

私は、自分の手で畝(うね)を耕し、雑草を抜き、種をまき、水をやり、手入れをした後、トウモロコシを75本収穫しました。

人間に手があるのは、意味があるからです。それなのに、今では何十億人もの人が、料理をするにはキッチンカウンターに置かれたアレクサやSiri、ジェミニ、HALといったデバイスに問いかけるのが当たり前だと思っています。その隣には、祖母が結婚祝いにくれたナイフラックが、寂しげに佇んでいます。当時は、ジャガイモのゆで汁をパン生地に混ぜてパンを焼いていたものです。手で! 想像できますか? ホームベーカリーなんてありませんでした。

「ねぇ、Google、お湯の沸かし方教えて」

人類に神のご加護がありますように。

ここ、オウルフェザー農場では、手を使った冒険がキッチンに入るずっと前から始まっています。

私の4本足の助手、ブルーとともに。

私の庭はすべてレイズドベッド(地面より高く盛り上げた栽培床)で、毎年春になると、頑丈なガーデンフォークで手作業で畝を耕します。つるありインゲンがトレリス(つるを這わせる枠)に向かって伸びている細い畝では、小さな移植ゴテで土を掘ります。

通りかかる人は言います。「今は自動で耕してくれる小型の耕運機があるよ」と。まあ、確かにそうかもしれませんが、

手で耕したほうが、より深く、より丁寧に土を耕せます。

途中で止まって冬草を取り除くこともできます(もちろん手で)。

土の中のかたまりをほぐすのも手でできます。

手を土に入れるのが嫌なら、本当に植物を育てたいと思っているのでしょうか?

私はジムの会費(年間約720ドル)を払わずにすんでいます。

先日、私は手で雑草を抜きながら、ロサンゼルス・タイムズに載っていたとても良い健康コラムのことを思い出していました。それは、「デスクワークによる手首や肘の痛みを和らげるための簡単な5つのエクササイズ」についてでした。幸いにも、そのエクササイズは見出しほど複雑ではありません。「手首をゆっくりと内側と外側に5〜10回ずつ回す」という内容です。私はその動きをヒルガオ科のつる草を引っ張りながらやってみました。でもダメ。やっぱり真っすぐ上に引っ張らないと抜けません。

イギリスの『テレグラフ紙』では、関節炎の手の痛みに効く6ステッププログラムが紹介されています。まだ関節炎になっていない? でも、そのうちなりますよ。イギリスのやり方はかなり複雑で、全部実行しようと思ったら5時間くらいかかります。しかも「セラピーパテ」(リハビリ用の柔らかい粘土)などを使うのですが、私はそれが存在することすら知りませんでした。オウルフェザー農場では、「地下の粘土」を、地表近くに現れたときには「セラピーパテ」とみなすという大統領令を発令しました。国外追放はしません。溶けて消えてもらうだけです。

手動の道具を使うと、大地との直接的なつながりを実感できます。

ただし、この「手仕事礼賛」は宗教ではありません。教義もなければ、破門もありません。極端に走るのは避けたほうがいいでしょう。たとえば私は、バジルソースを作るときにニンニクや硬質チーズ、バジルをすり鉢で潰したりはしません。妻の両親が贈ってくれた素晴らしいクイジナート(アメリカ製のフードプロセッサー)を使います。

私は家庭用の素晴らしい製粉機を持っています(ポパイル風、79.95ドルでアマゾンで購入)。乾燥トウモロコシをコーンミールやグリッツに挽くのに使っています。すり鉢は使いません。でも、冬になると、暖炉のそばに座り、瞑想音楽を聴きながら、トウモロコシの粒を手で芯から外しています。

庭に水をやるのにバケツは使いません。まあ、たまに使うこともあります。果樹園を流れる小川から新しく植えたサクラの木に水をやるときなどに、バケツで汲むこともあります。

もちろん、私の本業である執筆も手による仕事です。私は有名なロマンス作家ではないので、湯船につかりながら原稿を手書きしたことなどありません。1966年にタイプライターを習い始めて以来、ずっとキーボードを使っています。1972年に初めてコンピューターのキーボードを使い、それ以来「音声入力」は拒否しています。文字が一字一字、連なって形になっていく過程は、創作において極めて重要な要素なのです。

ところでAI、最近生成AIによる文章を読みましたか? インターネット中にあふれていますが、ひどいものばかりです。馬鹿げていて、笑ってしまうような代物です。オープンAIが私の原稿を盗んだ分を除いては。

すべての始まりの場所、原点に立ち返りましょう。庭や自然の守護聖人、アッシジのフランチェスコを思い出してください。彼はこう言いました。

「手を使って働く人は労働者である。
手と頭を使って働く人は職人である。
手と頭と心を使って働く人は芸術家である。」

手で料理をするのは、心に報いる作業です。作る人は現場では、心を集中させることを求められます。

ある日、フランチェスコが畑を鍬で耕していると、近所の人がやってきてこう尋ねたそうです。「もし今日の午後に死ぬと分かっていたら、今何をしていると思う?」

彼は答えました。「私は畑を耕し終えるでしょう」

きっと、にこやかに。そしてその後、夕食を手作りし、手で食べ、手で片づけをして、そのあと天の呼び声に耳を傾けるのでしょう。まさに「神の手」ですね。

高価なガジェットやスマートデバイスが簡単に手に入る時代において、手を使って作業することは新たな目的意識をもたらします。

(翻訳編集 井田千景)

アラスカ・ビヨンド・マガジンの元副編集長で、シアトル北部の離島にある小さな農場に住み、有機栽培の干し草、豆、リンゴ、カボチャを栽培しています。