中国伝統文化の精髄―「二十四孝」(1)

2007年09月14日 09時59分
 【大紀元日本9月14日】「孝」は儒家の倫理思想の核心であり、長い間中国社会で家庭関係を維持するための道徳基準であった。それは、中華民族の伝統的な美徳であり、中国伝統文化の精髄でもある。

 元の郭居敬は、中国古代の孝行が特に優れた24人の故事を集め、「二十四孝」を編集した。後に絵が配され、「二十四孝図」として孝行の道を広めるための通俗読み物となった。

(舜:二十四孝図より)

01 舜


 舜は伝説上の皇帝で、五帝の一人。姓を姚、名を重華といい、号を虞氏といったことから、虞舜とも称された。伝えられるところによると、父・瞽叟(こそう)と継母と異母弟の象は、舜が気に入らず何度も殺そうとした。ある日、舜が穀倉の屋根を修理しているとき、彼らは下から火を放って舜を焼き殺そうとしたが、舜は両手に笠を持って飛び降り、難を逃れた。また、舜が井戸を掘っているとき、父と象は上から土を落として井戸を埋めてしまったのだが、舜は側道を掘って逃げて助かった。

 そのようなことがあっても、舜は少しも恨みに思うことはなく、相変わらず父に従順で、弟には慈愛を以って接した。このような舜の孝行が天帝を感動させ、舜が暦山で畑を耕すときには、大きな象が彼に代わって耕してくれ、鳥が代わりに草取りをしてくれた。

 尭帝は、舜の孝行ぶりと政事を処理する優れた能力を聞き及ぶと、二人の娘・娥皇と女英を舜に嫁がせて様子を見ようとした。尭帝は何年も舜を観察し、あれこれ試した末、舜を後継者に選ぶことにした。

 舜は天子の位に着いた後も、父を見舞い、恭しく仕え、異母弟の象を諸侯に封じた。



(漢・文帝:二十四孝図より)

02 漢・文帝


 漢の文帝・劉恒(紀元前202年―紀元前157年)は、漢の高祖の第三子で、薄太后の子供である。高后8年(紀元前180年)に帝位に就いた。

 彼は仁孝で天下にその名を知られている。たとえば、母が病に伏した3年間、劉恒は寝る間も惜しんで母に仕え、母が飲む煎じ薬は、彼がまず毒見をしてから母に飲ませたという。

 彼は在位24年間、徳治と礼儀を重んじ、農業の発展に力を注いだことによって、西漢の社会は安定し、隆盛を極め、経済は回復と発展を遂げたことから、彼の統治時期は、漢の景帝の統治時期と併せて「文景の治」と称賛されることとなった。



(曾参:二十四孝図より)

03 曾参


 曾参(そうせん、紀元前506~?)は、字を子與(しよ)といい、春秋時期の魯国の人。孔子の自慢の弟子で、孝の道に優れ、世に「曾子」と称された。

 曾参は少年時代、家が貧しく、よく山へ芝刈りに行った。ある日、曾参が留守の間に家に客人が来たので、母はもてなそうと思ったが、家が貧しくどのようにもてなしていいかわからず、「曾参、早く帰ってきておくれ」と、自分の指を噛んだ。奇しくも、曾参は急に胸が痛み、母が自分を呼んでいるのだと思って、芝を背負って急いで家へ帰ってきた。そして、母から経緯を聞いた曾参は、無事礼を以って客人をもてなすことができたのである。

 母が指を噛んで願ったのが曾参に通じたのは、日ごろ曾参が孝行の心で母に接していたため、親子の情が深かったからである。

 曾参は、学識豊かで、「吾、日に吾が身を三省す」という修養方法を唱えた。また、「大学」「孝経」等の儒家経典を著し、後の儒家から「宗聖」と尊ばれた。

(翻訳/編集・瀬戸)


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