中国伝統文化への誘い(七) 元

【大紀日本1月24日】

史上最大 モンゴル帝国 

今の世界地図ばかり見ていると、各国が、昔からその形にくくられていたように思われますが、実はそうでないことのほうが多いようです。

たまたま手元にあった地図帳は昭和6年のもの。中国のページを開いてみると、その中国の北にはソ連との国境までつづく広大なモンゴル高原が広がっています。ここは20世紀の中ほどまで、内蒙古・外蒙古の別なく、遊牧の民・モンゴル人の天地だったのです。

ところが現在の中国では、漢民族以外の民族を総じて「少数民族」と呼んでいます。確かに居住地域も限られた少数の人々、例えばオロチョン族のように人口数千人ほどの民族もいます。しかし中国には、どう見ても少数ではない、大人口の民族も数多く存在するのです。そうすると「少数民族」という聞き慣れた用語は、統治側が人民にすりこんだ方便と言えるでしょう。

さて、そのように少数民族ではないモンゴル人は、中国の「自治区」とされている内蒙古には581万人、モンゴル国内には275万人います。中国国内にいるモンゴル人のほうが多いのですね。

13世紀、モンゴル人は、アジアからヨーロッパに至る史上最大の帝国を築きました。その気が遠くなるほどの版図は、太祖チンギス・ハンとそれを継ぐ子や孫たちが、一族が会社を創業するように極めて短期間に広げたものです。ところが、当然ながら、それほどの大帝国を統一的に維持できるわけもなく、宗主国の元(1271~1368)と4つのハン国とに分立するかたちになりました。

 元の中国統治

モンゴル人は草原を移動する遊牧の民です。

とは言え、肉と乳ばかりの摂取では生命を維持できないので、農耕民がつくった茶や菜穀も必要とします。それらの物品を交易によって入手するか、力ずくで奪うかは、モンゴル人(もちろん現代ではなく過去のモンゴル人)の思考においていずれも正当な手段として存在します。

ところが問題なのは、その二つのカテゴリーに属さない手段、つまり征服した土地において、自民族以外の人々を長く統治する手段を彼らがもたなかったことなのです。漢民族を相手に、クリルタイ(部族長会議)を開くわけにもいかないからです。

中国の江南には、前王朝である南宋時代に開かれた、ゆたかな穀倉地帯が広がっていました。モンゴル人からすれば垂涎の的であるこの土地を活かすため、元は南宋の行政機構をほぼそのまま流用し、その地方長官の上に、モンゴル人によるダルガチ(監督官)を置きました。

つまり「モンゴル人第一主義」といわれる元の中国統治は、確かにモンゴル人、色目人(西方系の諸民族)、漢人(金統治下にあった者)、南人(南宋統治下にあった者)の4階層に分け、人民を差別化することで安定を図ったのですが、現実には、中国文化の圧倒的な存在の前に、征服民族であるモンゴル人も妥協し、同調せざるを得なかったのです。

その意味では、征服者としてのモンゴル人にはかなり荒っぽい面もあり、中国を一時的に「中断」させたとも言えますが、それでも中国伝統文化を破壊しつくすことはできなかったということでしょう。

元が中国にもたらした騎馬民族らしいプラス面を一つ挙げるとすれば、交通路を整備し、ジャムチという駅伝制を全国に広げたことです。

これは、例えば官命による旅行者に站(たん)という中継地で馬や食料を供給したものですが、これにより情報や物品の流通が発達し、交易が盛んになったことは確かです。全身の血流をよくすることは、国家としても有益であることの証明となりました。

文化の灯は消えず

元代の中国文化は、むしろ民間において存続し、発展しました。

その背景には、儒教の教えを中心とする科挙は停止、あるいは復活されてからも少数回しか行われなかったので、知識人たちは生きる手段を求めて大衆向けの文芸に進まざるを得なかったという事情があります。

その中でも特筆すべきは「曲」、すなわち「西廂記」「漢宮秋」「琵琶記」などの戯曲の隆盛でした。漢文、唐詩、宋詞、元曲という言い方があります。それぞれの時代において最も発達、または精彩を放った文学ジャンルを述べたものです。その中で、おそらく元の「曲」が最も華やかだったと想像します。

政治の世界はどうあれ、巷間にいる大多数の民衆(漢字を解さない庶民層と異民族も含めて)は、これら鳴り物と歌謡の入った賑やかな芝居を大いに楽しんだに違いありません。

また小説の分野では、明代の作とされる『西遊記』『水滸伝』『三国志演義』などの原型が、この元代にできたとされています。

これらのことから何が分かるかというと、元代における中国文学が、それまでの詩や文章による写実や実録の域を脱して、完全な創作となったこと。つまり、従来は低く見られていた小説や戯曲といったフィクションについて、その価値、平たく言えば「面白さ」の必要性が広く認知されたということでしょう。

ただし、大衆向けの娯楽的文化は発達しても、真の中国伝統文化の停滞による道徳の低下は避けられませんでした。

1294年、チンギス・ハンの孫でモンゴル帝国第5代皇帝のクビライ・カンが死去すると、皇位継承をはじめとする相続争いが絶えなくなります。

さらに、色目人官僚の腐敗や、宮廷内におけるラマ僧の専横がはなはだしくなり、交鈔(兌換紙幣)の乱発がインフレを招いて、元の国力を一層衰退させました。

その中でも第8代皇帝のアユルバルワダは、唐の理想的君主であった太宗の言行録『貞観政要』をモンゴル語に訳して全国に配布するなど、中国伝統文化を重視する政策を推進したことで今日も高く評価されています。

「麦ふみ」の時代

早春のまだ寒い時期に、麦の芽を踏むと強く育つと言われています。

約1世紀つづいた元という時代は、中国伝統文化にとって、言わば「麦ふみ」の時間だったのかも知れません。上に向かっては伸びられませんでしたが、その分しっかりと大地に根をはり、復活の時をじっと待っていた時代。だとすれば、モンゴル人による中国統治も、より強い作物を育てるための氷雪であったと言ってよいでしょう。

国の規模が大きいため見えにくいのですが、中国史のなかでの元は短命王朝に属します。その終焉はあっけないもので、元朝末期に各地で起きた農民反乱をどうすることもできず、華南を統一して1368年に南京で皇帝に即位した朱元璋が明朝を建てると、同年、第15代皇帝トゴン・テムルは大都(北京)をあっさりと捨て、潮が引くようにモンゴル高原に退きます。

その後、モンゴル人は、北方から断続的な圧力を明朝にかけ、時には遠征した明の皇帝を捕虜にする(1449年、土木の変)ということもありましたが、中国全土を手中にしようという野心を再び起こすことはありませんでした。

それはおそらく、騎馬民族の方法論で農耕民族を統治することの難しさに加えて、中国文化の高峰に馬で駆け登ることの無謀さを、彼らが学んだということでしょう。

モンゴル人にとって本当の不幸がもたらされるのは、やはり20世紀後半、ソ連と中国共産党によって父祖の大地であるモンゴル高原が内外に線引きされ、それぞれにすさまじい粛清の嵐が吹いたことです。

しかし、それ以前の数百年間、モンゴル人と漢人との間には、互いに相手を必要として交易を行う良好な関係が保たれてきたことを忘れてはなりません。

中国人が客好きであるのに負けないほど、モンゴル人も遠来の客を大切にもてなす心温かい人々です。

神韻公演の演目の一つであるモンゴルの民族舞踊は、そのような草原の民の魅力を余すところなく描いて、きっと観客の心をとらえて離さないことでしょう。神韻のステージが、あなたの心に一杯のミルクティーを献上します。

 (牧)