【文化論エッセイ】畢竟、道徳とは何なのか?

【大紀元日本10月28日】国内でもまた海外でも、一般社会の道徳的水準が右肩下がりに低下していると指摘されて既に久しいが、これは何も現代に限ったことではなく、人類史上最強を誇ったかのローマ帝国でさえ、道徳の荒廃が亡国の予兆であったことを考えれば、それは人類の永遠のテーマなのであろう。

では、海外の事情はともかく、ここ近年の国内事情はどうなのであろうか?日本の所謂保守派といわれる人たち、都知事の石原慎太郎氏を始め、先に辞任を表明した安倍元首相といい、学校教育の中に道徳教育の必要性を訴えてきた。

一国の政治経済をどのようにハンドリングするかという第三世界的な発想とは別次元の話として、確かに市場の健全さというものは、その国民の民度、いいかえれば道徳的水準に立脚している。

例えば、隣国のように、肉まんに段ボールが入っていたらどうだろうか?はたまた「人造鶏卵」なる化学的に処理された卵が、格安で市場に出回っていたら・・ハタマタ海外の偽ブランド品が溢れ返っていたら、果たして健全な市場経済が成り立つだろうか。

これは、行政を司る官僚の世界でも同様である。担当者に良心がなくなれば、民衆の血税が横領されるだけだ・・・それは、海外の例を見るまでもなく、国内の社会保険庁の失態を見れば一目瞭然だ・・

では、この道徳という言葉、私の知る限りでは、中国の老子が初めて口にしたものである。それは、2,500年前の中国で、彼が「道徳経」5000言として纏め上げ、函谷関(かんこくかん)の門番に手渡して、「世の中には、邪悪な人間が多すぎる」として、さっそうと世間を去ったときから極東の「道徳」が始まる。

元々、この道徳という言葉は、老子による造語で、それぞれに分解すると「道」と「徳」だ。それぞれに深い意味があって、議論が待たれるところなのであろうが、国内では「道徳」として、論じられている。

では「道」と「徳」とでは、どちらが先かというと、「道」である。では、道とは、何かというと、性命双修の修煉である。そうした得道者が具えたところの徳―これが、本来の道徳という意味なのであろう・・・

では、この道徳の精髄とは、何か?それは、「功」だろう・・日本人には、聴きなれない言葉だが、平たく言うと「その人が周囲に与える影響力」とでもいおうか・・・であるので、周囲を純化する良い影響力もあれば、逆に周囲を退廃させる悪しき影響力もあるわけだ。

この「功」なるもの・・勿論、眼には見えるわけがないので不立文字だ。しかし、それでは大衆を広く訓育強化できないので、経文にしたり、極近くでは、国内の文科省が「道徳教本」にしたりして、読み方として教えているものだ。人類全てが修煉者の縁ではない、というのがそのゆえんだ。

中国から来た、この古くて新しい言葉「道徳」が、中国古代の伝統的な修煉に根差したものであることが分かると、現実の現代中国を見た場合、それが惨憺たるものであることが分かるであろう。

現代中国は、これら修煉者の精進を事実上、法律で禁じている。共産主義が、その他の思想が入り込むのを厳しく制限しているからなのだが、この道徳の源泉を締め付けるとは、一体これは、15億の民が道徳砂漠で喘いでいることに等しくなかろうか? 

もし・・中国が開放されたら・・これらの修煉者は、強制労働収容所に収監される恐れもなく、大手を振って精進できるようになるだろう。そうすれば、中国の民度が底上げされ、その無形の道徳的影響力は、日本に奔流のようにやってくるだろう。まさに、新生中国は、日本にとって将来的な道徳的資源といってもよく、それによって精神面が潤えば「自殺大国」の汚名も返上できるに違いない。