【文化論エッセイ】経世済民

【大紀元日本12月23日】わが国は、一説によると隣国である中国と2600年の付き合いがあり、その文化的な恩恵に浴するところは、奈良飛鳥時代の大宝律令を始めとして、火を見るよりも明らかである。

身の回りを見ても、日本人が愛してやまなく、今や日本独自の文化ではないかと思われるぐらいの餃子とラーメン、日本語表記中の漢字(本家では皮肉なことに簡体字になってしまったが・・)、亡国の遊戯として発明された麻雀などなど枚挙にいとまがないくらいだ。

しかし、清朝から最近では80年代の改革開廟xun_ネ降、日本から中国へ輸出された文化もある。その代表的なものが「経済」という概念だ。これは、中国の朝時代に著された古典『文中子』に見られる「経世済民」がその元となっている言葉なのだが、その本来の意味は「世を経(おさ)めて、民衆を救う」ということで、広くは国政を意味し、今のような貨幣利殖というような、物質的な繁栄という限定的な概念ではなかった。

日本で、経済の概念が貨幣利殖に限定されて用いられるようになったのは、江戸時代後期からだと言われている。そして、明治になると英米から入ってきた「エコノミー」という英単語に「経済」という言葉を当てはめて、欧米流の経済政策を導入して「富国強兵」の道を歩んだ。

では、この「経済」というもの・・国内的には、具体的にどのようなことを意味するのであろうか?それは、中間所得層が厚い国民経済を構築することではないのか?一昔前までの日本は、「一億総中流」と言われて、サラリーマン川柳にまで歌われるほど中流家庭が多く、中国の経済関係者が自民党の幹部に「どうして、(市場経済をやっているのに)こんなに中流層が厚いのか?」と聞きにきたぐらいであったのが・・。

では、この中間層が厚い社会というものは、どういった社会なのであろうか?「衣食足って礼節を知る」と言うように、それこそが民主的で安定した社会なのではないだろうか?経済的に安定した国民が大部分を占めないと、市民権がよく確立せず、国政に反映しないというのがその所以だ。

それが、かつての橋本政権時代から現在まで、「国際競争力を養い、勝ち抜く」の美名の下、種々の規制緩和を行い、金融を開放し(金融ビッグバン)、欧米型の弱肉強食型の社会を目指した結果、皮肉なことに官の腐敗を招き、銀行は破たんしてゼロ金利となり、民間ではM&Aの旋風が吹き荒んで企業経営は脅威に晒され、老舗の食品にまで偽装表示が横行し、結局は「勝ち組」と「負け組」に分かれる二層構造の、「中流」が少ない社会となってしまった。

しかし待てよ・・狩猟民族からなる欧米型のエコノミー社会は、そんなに冷血非道の社会なのだろうか?その代表格の米国を見ても、成程マイクロソフトのビル・ゲイツ会長のような世界に名だたる億万長者もいれば、ルイジアナのような南部のスラムで、1日1ドルで生活するような黒人の低所得層もいるのが現実だ。しかし、彼らにはプロテスタントしての伝統がある・・・。

即ち、彼らは事業で成功すると、教会に寄付するのは勿論、学校を建てたり、美術館を建てたり、交通遺児などの財団を設立したり・・・、社会全体が巨大なチャリティー社会で、米国では年間25兆円前後の富が社会に寄付される、クリスチャンの善意が社会全体に大きく回る社会なのだ。これは、わが国の寄付金の100倍以上の額だ。即ち、米国は「弱肉強食型の自由社会だが、事業の成功者はクリスチャンとして、チャリティーで社会に大きく還元する」のが、その実相だろう。

日本は欧米型のエコノミー社会を上辺だけ模倣したが、結局は聖書の伝統がないために「仏作って魂入れず・・」で、チャリティー社会が実現できていない。クリスチャンの魂の表現であるNGO・NPO団体が、雨後の筍のように国内で設立されたものの、イマイチ資金繰りに困るというのはこのためだ。

2007年9月の民間給与統計では、国内には年収200万以下で生活している国民が1000万人以上おり、労働者の実に4.4人に1人、パート労働者は1200万人もいる。それに加えて、石川啄木の詩ではないが、「働けど・・働けど・・わが暮らしよくならず・・じっと手を見る」ワーキングプア族の問題、これらに群がる暴力団の闇金の問題があり、一方で一流国家の証である健康保険と国民年金などの社会保障制度は、若年層の減少と官の腐敗で崩壊の危機に瀕している・・日本人は今一度、経済の源である「経世済民」に翻って、「経済」を考え直す時期が来ているのではなかろうか。