≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(2)

第一章  中国への旅立ちと期待

 1944年3月、8歳のとき、私は両親と一緒に新潟港を出発し、日本海を西へ向かって中国へ旅立ちました。それが自分の運命に、そして一家の運命にとって何を意味しているのかは、天真爛漫で好奇心旺盛な私には、まったくわかりませんでした。

 こんな大きな客船に乗るのは初めてで、すべてが物珍しく夢のようでした。船内にはいろいろな部屋があり、ホールや食堂などの設備までありました。船は大海原を航海していましたが、ほとんど揺れることもなく、まるで海面に建つ大きなホテルのようでした。

 しかし、夕方になると、天候が急変して、強い風が吹き激しい雨が降り始めました。船体は大きく揺れ、私はとても恐ろしく、言い表しようのない恐怖を感じました。母は私と弟たちに、横になって、できるだけ立ち上がらないようにと言いました。船は巨大な波に激しく揺れ、とても立っていられませんでした。私はひどいめまいを感じ、食欲もなく吐き気がしてきました。母は、寝てしまえば何も感じなくなると言ってくれました。しかし、目が覚めると、頭はさらに痛く、めまいもいっそうひどくなっており、そのうち、朦朧とした中でまた寝てしまいました。

 再び目が覚めると、母は依然私たちのすぐそばに座っていました。母が、「まだ頭が痛いの?」と聞くので、私は頷きました。その時、船の揺れは少し治まっていましたが、私は依然気分が悪かったのです。

 すると、母がある物語を語ってくれました。私は今なおその物語を鮮明に覚えています。なぜなら、それは、後に両親や弟たちと度重なる生き別れや死に別れを体験するという絶望的な境地に立たされた私に、精神的な支えとして生き続ける勇気を与えてくれたからです。

 母は落ち着いた口調で、静かに語り始めました。「昔、一艘の小さな船がありました。大海原で津波に遭い、激しい荒波で船は転覆してしまいました。乗っていた50数人の人は全員海に投げ出されました。船に激しくぶつかって死んだ人もいれば、波に流された人もいるし、しばらくもがいていたけれど力尽きて波に呑み込まれ、あっという間に姿が見えなくなってしまった人もいました。

 ただ、そのうちの10人はなんとか浮き輪につかまり、命が助かりました。海面を2日間漂っているうちに、ある小さな無人島にたどり着きました。しかし、飢えをしのぐ食物がありませんでした。そのうち、ある人がふと、手に「棒」をつかんでいるのに気がつきました。海に投げ出された時に、無我夢中で海面を漂っていたその「棒」をつかみ、その浮力のおかげでどうにか浮き輪にたどり着くことができたのです。その「棒」はなんと鰹節でした。これでみんなは救われることになりました。

 ただ、ナイフで薄く削って食べるわけにもいきませんでした。そうかと言って他に選択の余地などありません。そこで、どんなに硬かろうが、順番にその「棒」にかじりついて飢えを凌いだのです。こうやって、10人は順番に鰹節にかじりつきながら、互いに励ましあい、慰めあい、祈り続けて、一生懸命に生き延びていきました。そしてある日ついに、それほど遠くない海面に貨物船が現れました。みんなは服を脱いで振り回しながら、大声で叫び続けました。その甲斐あって、幸いにも、貨物船は彼らに気がつき、小船を出して皆を救ってくれました。

(つづく)

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はじめに: もし私が依然、普通の人と同じ考え方であったなら、八歳のときに家族と生き別れ、死に別れて以来、数十年にわたって心の中に鬱積しつづけた傷を解きほぐすことはできなかったでしょう。
この結末を聞いて、私はとてもほっとしました。母は私に、「みんなが互いに助け合い、励まし合えば、どんな困難をも克服できる勇気と自信が生まれる。そうすれば、きっといい方法が見つかり、生きていけるはずだ」と教えてくれました。
私たちが中国へ旅立つ前、父は祖母の家へ行って、中国行きについて相談しました。祖母は、父が家族全員を連れて行くことに反対でした。父は祖母にとって一人息子で、その上祖父が早くに亡くなったため、祖母は随分苦労しながら一人で父を育てました。それなのに、今父は日本を遠く離れ、見知らぬ国へ行こうとしています。祖母はどうして安心できるでしょうか?
私たちが父と一緒に船に戻ったとき、母はもう弟の力を寝かしつけ、みんなの布団を敷いてくれていました。しかし、私はもう全く眠くありませんでした。おそらく、ここ数日間、荒波の船上で
私たちは、羅津市を離れてからは、暴風雨に遭うこともなく、好天に恵まれ、さらに2日間船旅が続きました。
第二章 裏切られた期待と開拓団での生活  私たちがバスから降りたとき、目に飛び込んできたのは、一面の荒れ果てた山と野原でした。3月の黒龍江省はまだとても寒く、地面もまだ凍っていました。大地は一面枯れた雑草に覆われ、山にも緑は全くなく、麓に新築のレンガの平屋が幾棟か並んでいるだけでした。
大人の人にとって「何とかして生きていく」ということが何を意味しているのか、8歳の私には分かりませんでしたが、私たちが中国の辺鄙な田舎に来ていることは確かでした。そして、「何とかして生きていく」という父の慰めのことばが、その後自分が一人で向き合わなければならない運命になるとは思いもしませんでした。
それからしばらく経って学校が始まり、私は毎日小道を通って山の麓にある学校に通うようになりました。 
この時、乗客の皆は船を降りて上陸する準備をしていましたが、母は私が見当たらないのに気が付くと、あわてて至る所を探しました。母が呼んでいるのを聞きつけて、私はすぐさまそっちのほうを見ました。すると、母は一番年下の三番目の弟「力」を背負い、父は左手に一番上の弟「一」を、右手に二番目の弟「輝」を引いていました。