著者の一番目の弟・一(写真・著者提供)

≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(26)

第四章 独り暴風雨の洗礼に直面する

 母、弟たちとの永遠の別れ

 私が孤児になる運命がすぐそこまで近づいていようとは思いもよりませんでした。運命の手が今すぐにも、慈愛に満ちた、いつも私の命を守ってくれた母と、これまで互いに助け合ってきた二人の可愛い聞き分けのいい弟を、私のそばから永遠に連れ去ろうとしていました。

 生まれたばかりの弟がわずか5日で、飢えのためにこの世を去ったあの日、家の中はまるで一切の生気がなくなったかのようでした。母は三男の「力」をギュッと抱いていました。二男の「輝」は、ずっと黙ったまま母の近くに座っていました。私と長男の「一」は始終母の面前に座り、母が何か言い出すのを待っていました。

 母はとても厳粛な様子でこう言いました。「あなたたち二人はもう大きくなったので、お母さんから離れても大丈夫。これから食べていけるように、お母さんはあなたたちを中国人の家に出すしかないの」。

 私は聞き間違ったのかと思って、驚いて母を見ました。母と別れることなど、私はこれっぽっちも思ってもみませんでした。母と別れるのがどれほど恐ろしいことか、当時の私のあのような境遇では、考えるいとまさえありませんでした。

 母は重ねて、「もしこのままいけば、恐らくみんな餓死してしまう」と言いました。小さな弟の死が母にとってどれほど刺激が強かったのか、当時の私は想像できませんでしたが、母がそのとき下した決断は、その弟の死と大いに関係があったに違いありません。

 母は続けて、「あなたたち二人は、物分りがよく聞きわけもいいので、中国人にきっと気に入られるはず」と言いました。私と長男の「一」はやっと、母が本当に離れていくということがわかり、すぐさま母の懐に飛び込んで泣きました。

 母の言うとおり、私と弟たちは確かに聞き分けがよく、これまで外で面倒なことを起こしたことがありません。今母は、私たちが飢えないように、凍えないようにと考えたからこそ、私と「一」を中国人のもとにやろうとしているのです。当時は、中国人のもとに行くというのが何を意味するのか、わかりませんでしたが、ただ母の言うとおりにしなければならないということだけはわかっていました。

 しかし、ひとたび母や弟たちと別れるとなると、今後どうなるか想像できず、正面から向き合うのも難しいことでした。私と「一」は、この家にいて、寒くてひもじい思いをしてでも、母のそばから離れたくはありませんでした。

母は私を慰めてこう言いました

 

母は私を慰めてこう言いました。「機会があればまた会えるんだし、日本に帰れるチャンスがあれば、必ずあなたたちを連れて帰るから」。

 そして、母は特に私に、「一はまだ小さいので、これからはあなたがよく面倒をみてあげるのよ。あなたたち二人が同じ家にならなくても、どんな具合かちょくちょく見に行ってあげてね。そんなに悲しまなくてもいいわ。機会があれば、お母さんもあなたたちの様子を見に行くからね」と言いました。

 母はしばらく希望が見いだせそうもない状況下にあっても、気丈なしっかりした口調で、私の心の内に希望をもたせるようとしました。あのとき、長男の一はわずか5歳でしたので、母の話がどれだけ理解できたか分りません。弟の心の中に恐怖があったかどうかも私には知るすべがないし、母の話を彼が覚えていられるかどうか、将来自分が日本人の子供であり、日本に帰らなくてはならないということを覚えていられるかどうか、母にも私にもわかりませんでした。弟はそのとき、お姉さんがしばしば会いに来てくれるだろうと思って、それほど心配していなかったかもしれません。

 これら全ては、それから10年後、私のそばにいた唯一の肉親である一が私から永遠に離れていったあの日に、誰もが想像もしなかったようなとても悲しい答えが得られたのでした。

 一方、私は、そのときまだ恐ろしいとは思っていないし、恐ろしいというのがどういうことか、十分には分っていなかったようです。母が会いに来てくれるし、いつか日本に帰るために迎えに来てくれるというので、私には見込みがあるように思えたし、心の中では母の言ったことは必ず実現されると思い込んでいました。

 しかし、私は突如、思い到りました。一と私が母から離れたら、母と次男と三男はどうやっていくのかと母に尋ねました。母は、「お母さんのことは心配いらないのよ。なんとかして生きていくから。下の弟二人はまだ小さいので、お母さんがいないとダメでしょ。お母さんは、この子たちを連れてどこか中国人の家へ働きに行くわ」と答えました。

 私は、中国人の家へ行って働けばご飯が食べられると聞いて、母に、私も働くからお母さんと一緒にいたいと哀願しました。母は困ったように、「どこの家だって5人も受け入れてくれないわ。あなたと弟はひょっとしたら幸せになれるかもしれない。行った先では、言うことを聞いてじっと辛抱しなさいよ」と言いました。

(つづく)

関連記事
11月に入ってから、急に冷え込み始めました。日中の時間も次第に短くなってきました。ソ連軍がしょっちゅう家に押し入ってきて、女性を連れて行くという噂を耳にしました。ある人などは、ソ連軍に連れて行かれないように顔を黒く塗り、男か女か分らなくしました。
実は、よその家の子供たちはすでに、次々に中国人の家に引き取られていっていました。
養母の苛めに遭う 私と弟はこのようにして中国人に連れていかれました。私たちはかなり長時間歩いて、夕方前にやっと沙蘭鎮に到着しました。
私たちのこの長屋には、西棟の北の間にもう一世帯住んでいました。独身の中年男性で、私は「党智」おじさんと叫んでいました。彼は、趙源家の親戚で、関内の実家から出て来てまだ間もないとのことでした。
ある日、王潔茹がそっと私に教えてくれました。西院に靴の修繕職人がいて、その家に日本女性がいるというのです。そこで、私は母と二人の弟の消息を何か聞き出せるのではないかと思って、その家に行きました。
私と弟が沙蘭鎮に来てからはや数カ月が過ぎ、私たちは中国語が話せるようになりました。ある日、我が家に二人の軍服を着た若い男の人が、何やら入った二つの麻袋を持ってやってきました。中には、凍った雉やら野ジカやら食糧などが入っていました。
私は、もしかしたら養父は私を気に入ってくれないかもしれないと、心中、さらに不安になりました。
どうであれ、養母が不在であった数日は、私はとても楽しくとても自由で、私と弟の趙全有は中庭で、街で見たヤンガ隊の真似をして、自分たちでも踊ってみました。
養父が去ってから ほどなくして養父の足はよくなり、家を離れることになりました。私は養父に家にいてほしいと思いました。