著者の母(写真・著者提供)

≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(27)「母との永遠の別れ」

実は、よその家の子供たちはすでに、次々に中国人の家に引き取られていっていました。私たちは、王家屯にやってきてからは、この空き家に住んでおり、昼間は大家さんのところへ仕事に行き、夜になって帰ってきて寝るという生活をしていたので、開拓団のよその家との付き合いはほとんどありませんでした。ですから、母が夜中に子供を生んだときも、私は大家さんのお婆さんに頼みに行ったのです。

 末の弟が亡くなったときに初めて、大西おじさんにお願いして埋葬してもらったくらいで、よその家族がどこに住んでいるのか、彼らの子供たちがどこにいるのか、私には全くわからず、ましてや、何人かの子供がすでに中国人に引き取られたことなど、更に知るよしもありませんでした。

 数十年前の当時の歴史を思い出したとき、人々は「中国残留孤児」という言葉でかたづけていますが、これが死に直面してなすすべのない母子がかすかな生命でつくりだした歴史であったということなど、誰が想像できたでしょうか。

 二日後の昼ごろ、団長が二人の婦人と高校生らしい若い男の人を連れて私たちのところにやって来ました。この男の人は婦人たちの道案内をして、同伴してきたということでした。二人の婦人のうちの一人は、比較的年配で、背の高い纏足のおばあさんでした。髪は白くて、丸髷に結っており、青色の短い綿入れの上着を着、綿入れのズボンをはいていました。もう一人は、若くて髪の毛が肩までかかり、長い紫の綿入れを着ていました。私は当時、この若い女の人を少し恐いと思いました。

 団長が母に言うには、年配のおばあさんは「趙」という名で、男の子を欲しがっており、若い婦人のほうは「劉」といい、女の子を欲しがっていました。二人は沙蘭鎮に住み、同じ長屋の隣同士でした。母は隣同士だと聞いて、少し安心して同意しました。

 私は上の弟の手を引いたまま、その中国人の顔を見ることができませんでした。私は二度と母の顔が見られなくなるのではないかと心配して、母の顔をじっと見ていました。私は母が団長の通訳を聞きながら、目に涙を浮かべていたのをはっきりと覚えています。母は団長の紹介を聞くと、私たち二人をこの両家に行かせることに同意しました。そして、その二人の中国人女性に恭しく一礼して、「この子たちをくれぐれもよろしくお願いします。どうか面倒を見てやって下さい」と言いました。

団長は、昼間の天気がよくて暖かいうちに出発したほうがいいと言いました

団長は、昼間の天気がよくて暖かいうちに出発したほうがいいと言いました。そのとき、母の目からは涙がとめどなく流れ落ち、これを見た私と弟は母の懐に跳びこんでいきました。母は、数日経ったら弟たちを連れて様子を見に行くから先に行きなさい、と促しました。

 その二人の婦人は、私と「一」の手を取りました。私は名残惜しげに振り向くと、三番目の弟はオンドルの上ですやすやと寝ており、二番目の弟は依然として母の服の端を引っ張っていました。

 母は最後にまた、中国に来る途中の嵐の日に船の中で話してくれたことを諭しました。「どんな困難に遇おうとも我慢し、絶対に希望を捨てては駄目よ。弟の面倒をよく見るのよ」。

 私は涙を流しながら、うなずいて玄関の外へと歩き出しました。母も二番目の弟の手を引いて私たちの後について出てきました。外に出ると、おばあさんは「一」の手を引き、若い婦人は私の手を引いて歩き出しました。振り返ってみると、母も二番目の弟の手を引いてこちらへ歩いてきました。

 団長は母に家に戻るように言いましたが、母はずっと街道口までついてきてやっと止まりました。まもなく村の門を出ようとするころ、私は再び振り返って見ると、母と二番目の弟が依然街道口に立っていましたが、顔はもうよく見えませんでした。

 このとき、若い婦人が私の手を強く引っ張り、私に振り返らないように促しました。私には当時微かな希望がありました。「数日したら母が会いに来てくれる」。心の中にまだ「望み」があったのです。そのうえ、「一」と一緒だったので多少安心感もありました。

 当時は、これが母と二人の弟との永遠の別れになるとは思いもよりませんでした。それから半世紀以来、私は母たちがその後どうなったのか、耳にすることは全くありませんでした。

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