≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(43)「あわや掃討隊に連れて行かれそうに」

あくる日の早朝、養母は食料を背負い、弟の煥国を連れて出て行きました。私は、養母がなぜそんなに早く出て行ったのかわかりませんでした。いつもは、彼女はたいてい私に子守と留守番をさせるのですが、このときばかりは何も言わずに出て行ったのでした。

 養母が出て行ったので、私は寧ろ気楽に自由になり、ひとり部屋の中でひっそりと過ごしました。そのうち、隣の王喜蘭の家に行って王桂芳と遊ぼうと思いました。ところが、私が彼女の家に行くと、息子の嫁の上原豊子さんが私を見るなり、「早く家に帰りなさい。この家に来ては駄目よ」と私を追い出しました。

 私は本当に驚きました。なぜ私が来ては駄目なの?普段しょっちゅう来るわけでもないのに?今日は、養母が不在で自由なので、やっと遊びに出てきたのに。

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私の家が河北の長安村に移ってからほどなく、土地改革が始まりました。隣の王慶図兄さんは、土地改革の民兵隊長で、毎日のように銃を背負っては行き来していました。王喜蘭のおじさんは、毎晩こっそりと養母を尋ねてきました。
外の雪はますます激しくなってきました。私はそのとき家で一人、本当に不安でした。普段、養母に折檻されたときは、養母のことを本当に恨みましたが、今日は彼女が可愛そうになり、吊るし上げられるのではないかと心配でした。
養母に乞食を強要される ほどなく、私の家は「富農」というレッテルを貼られ、家で値打ちのあるものはすべて「没収」されました。養父もまた自由を失い、仕事と収入がなくなりました。
私たちは北卡子門を出て、一路北に向かい、閻家村に着きました。空はいくらか明けていました。養母は私の手を引いて村の中に入って行きました。
養母は後についてくると、私の手からトウモロコシパンを二つとも取り上げました。
身売りの話 養母は私が変わったことに気がつきました。以前のように思い通りにはいかなくなったのです。
その年の冬、新年が過ぎてまだ間もないころ、養母は買い手を見つけ、私を閻家屯の趙という家に「トンヤンシー」として高く売ったのでした。
その日の晩、養母と養父は蘭家後村の趙家の事を話し始めました。私にもかすかに聞こえてきたのですが、趙家は蘭家後村にあり、少なからぬ土地を分け与えられましたが、労働力が足りないので、養父に手伝いに来てほしいというのだそうです。
私は登校するために、自分で急いで布靴を一足作りました。西棟に住む李秀珍のお母さんに教えてもらったのです。