≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(44)「掃討隊に吊るし上げられた養母」

外の雪はますます激しくなってきました。私はそのとき家で一人、本当に不安でした。普段、養母に折檻されたときは、養母のことを本当に恨みましたが、今日は彼女が可愛そうになり、吊るし上げられるのではないかと心配でした。

 私は不安のまま窓にもたれかかり、外を見ていました。表門は大きく開かれ、中庭には既にたくさんの雪が降り、地面は真っ白になっていました。そのとき、表門の外から数十人の人が、養母を縄で縛り上げて中庭に入ってきました。養母はそこに跪かされました。周りを多くの人が取り囲んでいます。その中には隣近所の人たちも混じっていました。「見物」に来たのです。

 私からは養母が見えず、打たれたときの叫び声だけが聞こえました。私は怖くなり、自分の部屋に身を隠そうと思いました。ところがそのとき、何人もの人が家のドアを開けて中に入って来ました。彼らは、養母の部屋に入り、箱をひっくり返しながら何か探していました。次に、私の部屋にも入ったのですが、オンドルの上に干してあるトウモロコシの粒と巻き上げた布団を一瞥すると、何もせずに出ていきました。

 そしてまた中庭に引き返して、養母を打ち据えながら何か問い詰めていました。そのとき、日は次第に暮れ、雪もますます激しくなっていました。その人たちは、何かわめいていましたが、よく聞き取れず、ただ養母の叫び声だけが聞こえてきました。

 そのうち、何人かが建物の裏へ回りました。その瞬間、私は心臓が飛び出しそうになるくらい驚きました。積み上げた薪の下に養母の貴重品が隠されているのを知っていたからです。私は部屋からガラス越しに外を見ましたが、人の騒ぐ声が聞こえるだけでした。

 しばらくすると、その声も次第に遠ざかっていきました。私はそっとドアを開けて外を見ると、中庭には数人残っているだけで、その人たちも中庭から出ていくところでした。その人たちはそりに乗って去っていくのがかすかに見えました。

中庭には養母だけが残され、跪いて泣いていました

 

 中庭には養母だけが残され、跪いて泣いていました。私は急いで養母を抱き起こし、私の肩につかまらせながら部屋に連れて入りました。

 養母の背中は、鞭で打たれた後が何本も残っており、とても可愛そうになりました。養母は初めてすがるような口調で私に、「焼酎を持ってきて背中に擦り込んでおくれ」と言いました。私は急いで焼酎をお椀に注ぐと、手でそれを養母の背中に擦り込みました。養母はかなりこたえたのか、「痛い!痛い!」と泣き叫びましたが、いつものように癇癪を起こすことはありませんでした。それから、泣いて私に、「終わったら、玄さんの家に行って、煥国を連れて帰ってきておくれ」と言いました。私はうなずくと、大雪と大風の中、弟を背負って家に戻りました。

 私が家に帰ってみると、養母はまだ泣いていました。私は、養母に、弟が怖がるからもう泣かないようにと言いました。すると養母は、顔を挙げて初めて私にやさしい口調で、「私はあの人たちに叩かれて泣いているんじゃなく、貴重品をとられたのが悔しいの」と言いました。私はそれでやっと、あの人たちが、養母が薪の下に隠していた貴重品を全部持ち去ったことを知りました。

 私の養母は平素から人に嫌われており、掃討隊にこっぴどくやられても、見舞いに来てくれる人は誰一人いませんでした。中には、その災難を喜んで、「劉役人のところの婆さんが掃討隊にやっつけられたぞ」と言う人もいました。私はこういった話を聞いて、内心辛く思いました。それ以来、私の家にはほとんど人が来なくなりました。隣家の王喜蘭伯父さんは、以前は毎晩のようにこっそりと養母を尋ねて来ていましたが、今では全く来なくなりました。

 一方、養父のほうはこれとは正反対でした。警官をしていましたが、本来がまじめで温厚で、とても優しい人柄だったので、養父に恨みを持つ人は一人としてなく、皆から好かれていました。だから、土地改革があったときも、殴られることもなく、掃討隊が養父を追及することもありませんでした。

 ほどなくして、養父は探し出され連れ戻されましたが、吊るしあげられることも殴られることもありませんでした。ただ、「労働改造して、更生するように」とだけ言われました。私にはあの人たちのいう「更正」の意味がよく分かりませんでした。まさか、「掃討隊」のような残酷無情な人たちになれというのでしょうか。あの人たちがいい人だと言えるのでしょうか。私にはよく理解できませんでしたが、いずれにしても、一切が狂ったようでした。

(つづく)

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