≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(46)「パンを恵まれて」
私たちは北卡子門を出て、一路北に向かい、閻家村に着きました。空はいくらか明けていました。養母は私の手を引いて村の中に入って行きました。大きな門構えの住宅の前に着くと、立ち止まって、「中に入ったら、おばさん、お願いですから何か食べ物を恵んでください、と言うんだよ」と言いました。そして、私の背中を押して、早く行くように催促しました。
私は本当に物乞いなどしたくありませんでした。ましてや知らない人です。それで、全く動かないでいると、養母は私を力いっぱい門の中に押し入れ、自分はさっと出て行きました。私は恐る恐る歩を進めましたが、一歩一歩が千斤のように重く感じられました。心の中は恐ろしさと恥ずかしさで一杯でした。行かないと養母に殴られるし、行ったとしても何も言えないだろうと思いました。私はとても先へ進んでいく自信がなく、立ち止まりました。
突然、どこからともなく勇気が湧いてきました。脳裏に思いもかけない考えが浮かんできたのでした。「養母に殴られてもいい。私は行かない。」
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養母に乞食を強要される ほどなく、私の家は「富農」というレッテルを貼られ、家で値打ちのあるものはすべて「没収」されました。養父もまた自由を失い、仕事と収入がなくなりました。
養母は後についてくると、私の手からトウモロコシパンを二つとも取り上げました。
身売りの話 養母は私が変わったことに気がつきました。以前のように思い通りにはいかなくなったのです。
その年の冬、新年が過ぎてまだ間もないころ、養母は買い手を見つけ、私を閻家屯の趙という家に「トンヤンシー」として高く売ったのでした。
その日の晩、養母と養父は蘭家後村の趙家の事を話し始めました。私にもかすかに聞こえてきたのですが、趙家は蘭家後村にあり、少なからぬ土地を分け与えられましたが、労働力が足りないので、養父に手伝いに来てほしいというのだそうです。
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