≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(47)「物乞いの辛い日々」
養母は後についてくると、私の手からトウモロコシパンを二つとも取り上げました。一つは手提げバッグに入れ、一つは半分を背中に背負っている煥国にあげ、残りの半分は自分の口にくわえ、私には少しもくれませんでした。そして食べながらこう言いました。「あんたに食べさせたら、今以上に行きたがらなくなるからあげない。また行ってもらっておいで。たくさんもらったら、あんたにも食べさせてあげるから。」
先ほどの温かく感激していた心は、突如として冷え切ってしまい、私は内心のやりきれない気持ちをどう紛らわせばいいのか分かりませんでした。私はこっそりと脇に行って泣きました。しかし、私は養母に自分も食べたいとお願いすることはせず、何も言わず、引き返しました。私は一人で沙蘭に帰ることになっても、二度と人に物乞いをする気にはなれませんでした。
私は例のおばさんに本当に申し訳なく思いました。トウモロコシパンをただでもらい、その上私を気遣ってくれる気持ちを踏みにじったのです。私は歩くにつれて、人に物乞いをしたことが本当に恥ずかしくなってきました。それがこんなにも辛いことだというのは、自分で経験して初めて分かりました。
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私たちは北卡子門を出て、一路北に向かい、閻家村に着きました。空はいくらか明けていました。養母は私の手を引いて村の中に入って行きました。
身売りの話 養母は私が変わったことに気がつきました。以前のように思い通りにはいかなくなったのです。
その年の冬、新年が過ぎてまだ間もないころ、養母は買い手を見つけ、私を閻家屯の趙という家に「トンヤンシー」として高く売ったのでした。
その日の晩、養母と養父は蘭家後村の趙家の事を話し始めました。私にもかすかに聞こえてきたのですが、趙家は蘭家後村にあり、少なからぬ土地を分け与えられましたが、労働力が足りないので、養父に手伝いに来てほしいというのだそうです。
私は登校するために、自分で急いで布靴を一足作りました。西棟に住む李秀珍のお母さんに教えてもらったのです。
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