≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(87)

寧安一中の時に、孟先生以外で私の面倒をいろいろと見てくれたのは校長の王建先生でした。先生は、旧日本統治時代に東北地方の長春にあった建国大学の第七期卒業生で、日本語はとても流暢でした。

 先生は、土地改革後に牡丹江一中で教育の仕事に携わり、後に寧安県の八中の校長に就任し(あの時、全省の配列で、寧安は八番目になっており「八中」と称された)、54年に寧安一中が設立されてからは、寧安一中の初代校長に就任していました。

 王校長は、元の名前を王益平といいました。家は遼寧省の撫余県にあって、家庭の暮らし向きは苦しく、兄弟は三人、兄は鉄道の労働者、父母はすでに年老いており、弟はまだ小さく、元来、彼が高校、大学へ進学するお金はありませんでした。そこで、家の両親が決定して、現地の長者であった李家の、彼より四歳年上の長女と婚約させ、李家が王益平を大学にやることを了承したという次第です。

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はじめに: もし私が依然、普通の人と同じ考え方であったなら、八歳のときに家族と生き別れ、死に別れて以来、数十年にわたって心の中に鬱積しつづけた傷を解きほぐすことはできなかったでしょう。
なんの機縁か、英国南西端のケルト系の地、コーンウォール州の片田舎で一人娘アン(仮名)の子育てをすることになった。夫はイギリス人。日本企業は皆無。日本人といえば、国際結婚をした女性が数名。こんな環境で、私は日本語だけ、夫は英語だけを娘に使用するという、バイリンガル子育てが始まった。言語に留まらず、日英の文化の根本的な違いを痛感させられる18年間だった。
寧安一中の時に、孟先生以外で私の面倒をいろいろと見てくれたのは校長の王建先生でした。
2004年に台湾の益群書店より『医山夜話』が出版された。これは、漢方医が患者と共にどのようにして多くの不思議な病を治したかを綴った実話集である。病気と聞くと、人々はよく病院での診断、治療、薬などを思い浮かべるが、人の心、道徳、正念、善行などが病と深く関係していると考える人は多くないだろう。
「21世紀は中国の世紀だ」と中国人は気負う。文明史的な視点から見れば、このことばは自惚れの嫌いがあっても、必ずしも過言ではないかもしれない。将来、歴史的事実として証明されるであろうが、中国の台頭およびその影響力の増強は人類文明史の必然のステップであり、歴史の発展の大趨勢である。