「漢字は文化遺産」 信念を貫き、文革に翻弄された国学者:陳夢家

【大紀元日本8月28日】1950年夏、毛沢東は漢字を表音文字化するよう改革命令を下した。学者や文化人が凄まじい迫害を受けていた時代に、古文字学者・陳夢家(ちん・むか)は、穏やかに自信を持って、漢字は中国の文化遺産であると宣言した。結局、彼は漢字の表音文字化に反対したがために、右派とされ、文化大革命の中で迫害を受け、生きる尊厳を守るために死を選んだのである。

鉄馬の詩

私は古寺の小さな風鈴、

太陽が私に笑いかけ、

金色の縁取りを付けてくれた。

いつの日か、

神様が心の静め方を教えてくれたなら、

私は雲のそばに飛んでいって、

ひとつの星になる。

一輪の花

一輪の花が野原で咲いて、そして散った。

青空は見えるけど、

チッポケな自分は見えない。

風の優しい声は聞き慣れた。

風の怒りの声も聞き慣れた。

自分の夢ですら簡単に忘れてしまう。

これは陳夢家が青年時代に書いた詩で、短いが深い味わいがある。まるで一面の秋空の下、悠然とした静寂の美が溢れているようだ。

陳夢家(1911年-66年)は、才能に溢れていた。16歳で詩を書き始め、20歳の時、『夢家詩集』を出版し、聞一多(ぶん・いった)や徐志摩(じょ・しま)と名を連ねるほどであった。彼は南京市の敬虔なキリスト教徒の家に生まれた。父親は中国文化に造詣の深い知識人であり、陳夢家自身も中国文化人の息吹を色濃く感じさせた。

乱世の学者・陳夢家

1932年、陳夢家は中央大学(現・南京大学)法律学科を卒業後、燕京大学の宗教学部に入った。34年から36年まで、古文字学を専攻し、44年から47年まで、アメリカのシカゴ大学で中国古文字学を教えた。在米中、彼はアメリカで青銅器を所蔵する個人、博物館、骨董品屋などを訪ね歩き、欧米に散逸した商周時代の青銅器の資料を集め、後に本にまとめた。

47年、陳夢家は国家再生の理想を抱いて帰国し、清華大学中国文学科で教鞭を執った。その後研究に力を注ぎ、著名な古文字学者、考古学者となった。彼は、甲骨学や西周青銅器の時代区分、木簡・竹簡の研究に成果を上げ、多くの著書が後世に多大な影響を与えた。

陳夢家の著作『中国文字学』(ネット写真)

漢字の悪運

帰国後間もなく、陳夢家は中国の悠久の文化において最も暗黒の時代に直面することになった。

毛沢東は早くから文字改革の考えを持っており、共産党は漢字を、新文化と民衆の間に横たわる「万里の長城」だと批判した。彼らは、アヘン戦争時の国力の衰退も漢字のせいだとし、漢字が「帝国主義による中華民族への侵略を助長させた」とまで言った。

中国において、漢字の表音文字化の試みは早く、共産党勢力下の華北地区では、41年にアルファベット化された字体が合法化され、契約や政府資料でアルファベット文字の使用が許可された。

49年に共産党が全国を掌握した後、文字改革が第一の急務となった。毛沢東の命令の下、中国の言語学者たちは、数年で二千種あまりの中国語用の表音文字体系を創り上げた。中には、アルファベットのほかに、古代スラブ文字や日本語のかな、アラビア文字と数字の結合、アルファベットと漢字の部首の組み合わせなどがあった。多大な労力を費やして作られたこれらの文字体系の中から、毛沢東はアルファベットを使った現在のピンインを選んだ。

実は、この間に、漢字の簡体化も決定されていた。ただ、これは漢字の表音文字化の過渡段階の手段と見なされ、改革者たちはあくまでも表音文字体系を創り上げようと望んでいた。

漢字を守り「右派」とされる

考古学者の陳夢家は、漢字の持つ奥深い意義がよくわかっていた。漢字がなくなったら、中国数千年の文化と歴史が分断されてしまう。後世の子孫は古籍を読めず、自分たちの歴史を忘れてしまうことになる。当時、陳夢家はまだ共産党とそれが推し進める各種制度について、公に批判することはなかった。ところが、共産党は
51年、「知識人の思想改造運動」と、アメリカ帝国主義の文化侵略の清算を始め、中国と西洋に通じた陳夢家は、当然のことながら改造の対象となった。

陳夢家夫婦の友人・巫寧坤(ぶ・ねいこん)は、「燕園の末日」のなかで次のように回想している。当時、陳夢家は40あまりにもかかわらず、痩せこけて顔は真っ黒であった。いつも眉間にシワを寄せ、目に見えない重荷を背負っているかのように、背中を丸めて歩いており、かなり老けた様子であった。ある日、すべての先生と生徒は集団体操に参加するよう呼びかける放送が流れた際、彼は「1984年がもうやってきた」と叫んだ。(『1984年』は、イギリス作家ジョージ・オーウェルの1949年刊行の小説で、未来の強権社会を予言した)

間もなく、学校では授業がとりやめになり「運動」が始まった。先生たちは大会で「自己批判」と「他人の批判」をさせられ、一人一人、自分のやってきたことについて詳しく「白状」させられた。

その後、大学の再編成が始まり、清華大学の中国文学科と燕京大学が廃止された。陳夢家は清華大学で猛烈に批判された後、考古学研究所に送られた。それ以降、彼は口を閉ざし、沈従文(近代中国の作家)のように、文献の海に潜って研究に没頭し、詩を作る心境もなくしてしまった。

静寂の中で、彼は大量の重要な専門著作を書き上げていった。詩人、教授から権威ある古文字学者、考古学者となった。その上、初めて考古学と古文字学の領域に西洋の学術的観点と規範を導入した。

57年4月、毛沢東が「百花斉放、百家争鳴」運動を提唱し、共産党は知識人に意見を求めた。春到来の知らせを聞いたかのように、大勢の中国人が公開の場で自分の本音を大胆に述べた。

陳夢家も、共産党は今度こそみんなの声を聞くだろうと思った。そこで、彼は演説の中でこう述べた。「百花斉放運動の今、誠意を持って漢字の未来について話し合ういい機会だと思う。私は余すところなく自分の意見を出したいと思う。…我々はすでに漢字を三千年あまり使用してきた。これらの漢字に悪いところは何一つない。…最近、私のある文章が論争を引き起こしたが、これは多いに歓迎する。何か貢献したいと考えているから…」

「先ず、三千年以上使用してきた漢字は、やはりすばらしい道具だと思う。…排除する必要のない民族文化だ」「しっかり研究もしていないうちから漢字に死刑を宣告するのは早すぎる」「文字というものは、幾千幾万の人に関わり、子々孫々に関わることなので、くれぐれも慎重に対処しなければならない」

しかし、5週間もしないうちに、「百花斉放運動」は「反右派運動」に取って変わられた。陳夢家は、史学界の五大右派の一人とされ、猛烈な批判を受けた。「右派分子・陳夢家は毒を持つ草であり、永遠に根を張らせてはならない」と批判され、「険悪な陰謀を持つ妖怪」と形容された。

陳夢家の妻・趙蘿蕤(ちょう・らずい)は、燕京大学の才女で、48年にシカゴ大学で文学博士の学位を取得し、その後北京大学の欧米語学科で大学院の指導をしていた。しかし、反右派運動の中で彼女は、過度の刺激によって精神分裂症を患った。

陳夢家と妻の趙蘿蕤(ネット写真)

その年、100万人以上の知識人が「右派分子」のレッテルを貼られた。その中には、欧米に留学した経験を持つ各分野の専門家が含まれていた。多くの人は、投獄されたり、労働改造に送られたりした。それ以来、陳夢家は沈黙し、何もしゃべらなくなった。「人民政府」は、この甲骨文字の専門家を河南の農村へ下放させた。その後5年間、彼は国内で一切の文章を発表することを禁じられたのである。

このように、状況は非常に厳しかったが、陳夢家は依然として研究に励み、故宮の九百枚の銅器の拓本を夏商周の記録と一つ一つ照らし合わせた。60年、彼は、新たに出土した「武威漢簡」の整理のために甘粛へ呼ばれた。そこで、彼は、ずば抜けた才能と気力を見せ、わずか3、4年の時間で漢代の木簡・竹簡に関する論文を14本書いた。後に、社会科学院考古学研究所に呼び戻され、大いに腕を振るおうかと思っていた矢先に、未曾有の大災難、文化大革命が始まったのである。

(続く)

「新紀元」より翻訳編集・小松、瀬戸)