【漢方の世界】 悔い改めこそ、問題の鍵?

【大紀元日本8月31日】今回のカルテの主人公は、手首の激痛を訴える患者。彼はスプーンを持ち上げられないほどの深刻な手首の痛みに悩んでいた。そこで、いやいやながら灸治療を受けることになる。その治療院でうたた寝をした彼は、ある不思議な夢を見た。

夢の中で、彼は修煉者であった。ある時、壮大かつ厳かな法会に出席する。その場に居合わせた小坊主は、ランプを持ち損なって彼の袈裟を汚し、台無しにしてしまった。彼は激怒し、痛烈に小坊主を叱責する。大勢の前で激しい非難を浴びた小坊主は、戸惑いうろたえるのであったが……。

この奇妙な夢から目覚めた彼の心に、ふと、ある思いがよぎった。「私の半身不随の息子こそ、この小坊主ではないか」

実は彼には、生まれながらにして体が不自由な息子がいた。息子の体の成長とともに、この息子の世話をする彼への負担も増していく。そしてとうとう、彼の手首はスプーンが持ち上げられないほどまで悪化してしまったのだった。

そして彼は思った。自分の手首は、ランプを持ち損なったあの小坊主の手である。同時に彼は、夢で見た小坊主に息子の姿を重ね合わせた。つまり、息子こそあの小坊主の生まれ変わりではないか。きっと彼の心には、謝罪と悔い改めの念が生まれたのであろう。その後、彼の病状は回復を遂げたのであった。

この物語が示唆することとは? つまり、人には今生ばかりでなく前世もあるということだ。今生の出会いや別れ、これらはみな前世での縁が結ばれたものではないだろうか。わが身を襲う災難は、まるで突如降って湧いたかのようであるが、実は前世の因縁が原因なのかもしれない。

今生の我々は、前世の因縁に対して全くの無力だ。しかし、これに失望することはない。肝心なのは悔い改めの心だ。前世で犯した罪に対して真摯に反省する、その心が希望の光になるのかもしれない。

詳しくは新唐人テレビ局の『漢方の世界』でご覧下さい。

(翻訳・河合)