1分で読める故事成語(大紀元)

「完璧」ぐ~のね【1分で読める故事成語】

【大紀元日本12月11日】

『完璧志向が子どもをつぶす』(原田正文著、ちくま新書)

精神科医の著者は、長年の臨床経験と子育て実態調査に基づき、現代の親たちの完璧志向の弊害を指摘し、「70点の育児」を提唱する。

何事も完璧を追い求めれば追い求めるほど、深みにはまってしまい、しまいには身動きが取れなくなる。子育ても同じで、親の身勝手な期待を一身に背負わされた子供はなんと不幸なことであろうか。

「完璧」ということばは、中国の次の故事に由来する。

戦国時代、趙の恵文王は、楚の国から「和氏の璧」と呼ばれる立派な宝玉を手に入れた。それを聞きつけた秦の昭王が十五の城と交換してほしいと申し出た。昭王の約束は信用できないが、大国・秦の申し出を無下に断るわけにもいかないと考えあぐねていると、家臣の藺相如(りん・しょうじょ)が「私が参ります。もし城が手に入らないようであれば、必ず璧を無傷のままで持って帰ります」と申し出た。

藺相如が秦に使いに行くと、案の定、秦王は璧を手に取って満足げながらも約束を守る心意が見られなかった。そこで、藺相如は「璧には傷があります。王にそれをお見せしましょう」と言って、璧を取り返した。そして、璧を手に柱に向かうと、憤怒の形相で「王には約束を守る心意がないようです。ならば、私はここで頭を璧とともに柱に撃ちつけ、璧を砕いてしまいます」と言った。

秦王は非礼を詫び、地図を見せながら十五の城を与えると約束したが、藺相如はもはやそのことばを信じることはなく、従者に命じてこっそりと璧を趙に持ち帰らせた。

(史記・廉頗藺相如伝より)

この故事の中で、藺相如が趙王に約束した「璧を無傷のままで持って帰ります」の中国語が「完璧而帰」(壁を完[まっと]うして帰らん)であり、「完璧」ということばはここから生まれた。

ところで、「完璧」は日本語では本来、「完璧な演技」のように、まったく欠点がないことを言ったが、若者の間では「完璧に忘れてた」のように、「完全に」と同義で使われることがあるようだ。これは「完璧に使いこなす」といった本来用法の延長線上に派生したものだと思われるが、筆者には馴染めない。

そんなことを考えていると、友人が『完璧ぐ~のね』というタイトルの歌があると教えてくれた。AKB48のメンバーで結成された「渡り廊下走り隊」が歌う歌だが、この「完璧」とはどういう意味なのか。「完璧な彼氏にぐうの音も出ない」ということなのか、はたまた、「完璧に(まったく)ぐうの音も出ない」ということなのか。筆者には定かでない。

(瀬戸)

関連記事
「類は友を呼ぶ」は、もともと気の合った者や似た者同士は自然に寄り集まるという意味ですが、後に、悪人が互いに手を結び、悪事をなす比喩としても使われるようになりました。
南宋の愛国詩人とされた陸游(りくゆう)は強硬な対金主戦論者であったため、官職を罷免され、故郷に戻りました。 ある日、遠足に出かけた陸游はどんどん先へと歩いていき、いつの間にか 人気が全くないところへ来てしまいました。斜面の上から見渡せば、前に川が流れ、山が立ち並び、すでに道がありません。
「顰みに倣う」の出典は『荘子』です。著者の荘子は道教の始祖の一人とされ、実は、『荘子』の中のすべての作品が荘子のものではなく、多くはその弟子や道教の者たちの作品です。
「投桃報李」は『詩経』「大雅・抑」から来ており、衛の第11代君主・武公が自分を励ますために作成した詩です。
「墨を金のごとく惜しむ」は、一筆もおろそかに書かない、あるいは、軽々しく筆を下ろさないことのたとえで、後に洗練の努める意として使われます。