英国バイリンガル子育て奮闘記(105)最終回 卒業(2010/2011年)

【大紀元日本9月19日】英国の大学は通常3年。建築学科の3年目の担任が特に厳しく、学年が始まったばかりの頃、娘から涙声の電話がかかってきた。「なんで君に会う必要があるの?」「名前は何?何も作れない学生として覚えておくから」と言われて、自信喪失。プロの建築士でインドのプロジェクトから帰ってきたばかりのこの担任。睡眠ゼロで学生のアポに出てきたとか。娘は自分のアイデアをどうやって模型にするか、アドバイスを受けたかったのに、「寸法や素材が分からなければ、自分が納得するまで作り直せば?」と冷たくあしらわれたとか。

プロとアマの境界線が引かれていることに気付き、3年目は本気で取り組まないと卒業できない、ということを目覚めさせてくれた良い先生だった。以来、睡眠も食事もほとんど取らず、プレゼンテーションの日は気持ちが悪くなるほどの限界の生活を自分に強いていた。芸術ベースのコースのため、常にアイデアを出すことが求められる。しかし、発表はクライアントに提示する形をとり、ひどい批判にも負けず、理路整然といかに自分のアイデアが良いかを説明しなければならない。工学者としての設計のコースでは、これほどまでの精神的なプレッシャーはかからないだろう。

最後はホテルの設計で、「締め切りの当日になっても2階の窓が一つも描けていない。どうしよう?」という電話がかかってきた。24時間の締め切り延長をもらって、なんとか仕上げたようだった。しかし、延長をもらったことで、今度は他のプロジェクトにかける時間が足りなくなる。すべて提出した後で、落ち込んだ声の電話がかかってきた。「もっとできたはず…」と嘆いていた。そして数週間、悶々と結果を待っていたが、上位半分よりも上の2:1(ツー・ワン)と呼ばれるレベルで合格していた。その後、私がロンドンに出る機会があったとき、日本料理屋の簡素な食事で一緒に卒業を祝った。

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22年間の人生を2年にわたって掲載させていただいた。幼稚園を過ぎたら、子供の本当の成長は見守れなくなるなと実感した。私が接した部分だけの内容なので、本人が読んだら不正確さにあきれることだろう。私が22歳の頃、自分の母親が自分のことを他人に語る様子を耳にして、唖然として声もでなかったことを思い出す。

連載を通して、一人の人間が成長していく過程で、実に多くの人間が関わることを教え諭された。来月、娘は結婚を予定しており、親としての人生の節目を迎える。こうして振り返る機会に恵まれ、拙い文章に目を通してくださった方々に感謝したい。

(終わり)

著者プロフィール:

1983年より在英。1986年に英国コーンウォール州に移り住む。1989年に一子をもうけ、日本人社会がほとんど存在しない地域で日英バイリンガルとして育てることを試みる。