「孔子」と深い縁を持った日本人

和辻哲郎氏は1889(明治22)年―1960(昭和35)年まで、71年の生涯を生きた人です。孔子の生涯73年にほぼ近かったのも、何かの縁でしょう。和辻氏は昭和13年に『孔子』を岩波文庫に発表します。孔子の論語がちまたに、広く読まれることを願ったからでした。

和辻氏は西洋哲学に精通した、モダンな倫理学者でした。大正8年に出版した『古寺巡礼』がヒットして、奈良の鄙びた風土を世に高らしめた先駆者です。日本の風土から生まれる倫理学に一直線に取り組みました。その和辻氏が、中国の風土から生まれた聖者・孔子に挑んだのです。和辻氏は倫理学者らしく、キリスト・釈迦・ソクラテスと並ぶ人類の大教師の一人として、「孔子」の特徴を解明します。

和辻氏は「朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」という、孔子の言葉に関心を寄せます。弟子の子路が死を問うた質問に、「未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らむ」と答えた孔子の言葉に、それは重ね合わさるものでした。死や魂の永世を問わず、神秘主義を脱して生の道に徹した孔子の生涯に、おのずと共感を寄せたのです。

「朝の道」は和辻氏にとって人倫の道がこの世に実現したことでした。この世に「人倫の道」が実現したなら、いつ死んでもよいという生き方に、孔子の仁の思想の核心を読み取ったのです。

「孔子以前の時代には、宗教も道徳も政治もすべて敬天を中心として行われた。・・・然るに孔子は人を中心とする立場を興した。孔子における道は人の道である、道徳である。・・・ここに思想上の革新がある。孔子もまた革新家である」(岩波文庫『孔子』)

和辻氏のお父さんは、姫路市で開業していた篤実なお医者さんでした。病人に尽くすだけの生涯を飾り気なく全うした後ろ姿が、和辻倫理学の基です。また和辻氏は、終生変わらない愛妻家でした。三人で一人の倫理学を、日本の風土の中にもたらした人でもあったのです。ヨーロッパ哲学と日本を結んで、「中国の孔子伝」の中で一度は語ってみたかった倫理学があったのでしょう。
 

(倣人)