【紀元曙光】2020年8月6日
(前稿より続く)江戸時代は、日本史における魅力ある時代だが、同時に厳格な身分差別の社会でもあった。
▼士農工商の下に、賎民とされる人々がいた。その存在は、江戸時代が終わって百年後の20世紀半ばまで、日本社会に暗い陰を落とした。武士にも上士と下士の別があり、さらには住居の区画も分けられた郷士がいた。農民も、富農から小作人までその階層はさまざまであった。
▼ただ江戸時代においては、不思議なことだが、「武士道」という道徳律は武士だけのものではなく、町人や農民もそれをある程度共有し、遵守していたのである。町人は、切腹はしないし許されないが、「卑怯なふるまいは恥だ」という武士的な規範意識をもっていた。武士道精神は、武士のみならず身分差を超えて広がっていたことになる。
▼江戸の庶民は、元禄15年12月14日に吉良上野介邸に討ち入った赤穂浪士を、徒党を組んで押し入った暗殺集団ではなく、これぞ忠義の士、武士の鑑と称賛した。それは主君の仇を討ち、本懐を遂げた赤穂の侍を絶賛するものだったが、同時に、武士道という精神の極美に陶酔する庶民の本音でもあった。もちろん、それで溜飲を下げる意味もあっただろうが。
▼いずれにせよ、困ったのは幕府のほうである。第5代将軍・徳川綱吉もその処遇に頭を悩ました。庶民の喝采を浴びる義士を罪人として斬首にはできず、結局、武士らしく全員を切腹させるに至る。腹を切るのは痛かろうが、これで彼らの武士道は完結した。
▼こうして日本人に広く浸透した武士道を、司馬さんは「誰もがもっている、微弱な電気」と呼んだ。(次稿へ続く)
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