大紀元時報

【掌編小説】闇夜の涙  杜甫「石壕吏(石壕の吏)」より

2021年02月20日 17時00分

 左右の山が狭くなり、杜子美は山道を急いでいた足をゆるめた。

 日暮れ時である。今のうちにどこか宿を探さねば、月もない闇に呑まれてしまう。この辺りは山辺なので、狼に代わって虎がでる。そう思っただけで、暗い茂みのなかから猛虎が躍りかかってくる気がした。

 ものを探す目で辺りを見ると、屋根を草でふいた土塀の家があった。細い水の流れが家の前を通る。その貧家にも、まだわずかに人がいる気配があった。杜子美は、その流れをまたいで渡り、朽ちかけた家の戸口から「どなたか、おられるかね」と、つぶやくように訊いた。

 家人を驚かせてはいけないという心遣いである。春とはいえ、まだ風は痛むほど冷たい。この家の人々が、寒風から身を隠すように、何かに怯えて生きていることが伺えた。奥の暗がりのなかに、声も発せずこちらに目を向けた顔があった。二人いる。自分たちに危害を加えるものではないと分かると、二人は体を杜子美の前に運び、腰をかがめて形ばかりの礼をとった。相手に向けたままの目は、いずれも白く濁っていた。この家の老夫婦であることが、ようやく分かった。

 杜子美は、官人らしい鷹揚な態度はとらず、その白濁した目の持ち主に聞きとりやすい言葉でゆっくりと告げた。「私は公用で東都(洛陽)から長安へ帰る途中の者であるが、夜が近くなったので、すまぬが一夜の宿を請いたい。銭は払う」。

 老夫婦は、ようやく心を解いた。妻である老婆が「このような貧家で何のおもてなしもできませぬが、どうぞここで、お休みください」という。杜子美は、遠い昔に亡くした母の声を聞いた気がした。

 携行していた焼餅の一つを口にし、残りは全てその家人に与えて、杜子美は横になった。借りた藁の掛け物は寒さをしのぐには足らなかったが、山旅の疲れが眠気を誘った。老夫婦のほかにも誰かいる気配がする。赤子の泣き声が聞こえたようだが、定かではない。

 夜が更けた頃、村の男を労役に徴用する下吏がやってきた。夫である老翁は、垣根を越えて逃げた。老婆ひとり戸口へ出る。大声をあげて恫喝する下吏の前で、老婆は泣きながら「この家に男はおりません」と震える声で答えている。

 聞こえてくる老婆の言によれば、次のようらしい。

 三男は兵役のため鄴城(ぎょうじょう)の守備に就いている。別の場所にいる長男からの便りによれば、次男は最近、戦死したとのこと。生きている者も、やがて死ぬ。死んだ者は、もう帰らない。「この家には、乳離れもしていない孫のほか、男は誰もおりません。戦死した次男の嫁が、まだこの家を去らずにおりますが、身につけた着物はひどく破れ、家の出入りに満足にはける裙(スカート状の衣)もないありさまです」。

 乳飲み子を抱えた嫁のことをつい口にして、老婆は、はっとしたらしい。「その嫁を出せ」と言われたらおしまいだ。まだ若い嫁が兵営に連れていかれたらどうなるか、容易に想像がつく。目の白い老婆は迷うことなく、信じられぬほど強い語気に替えて言葉を続けた。

 「私が参ります。お役人さまに随って、これからすぐに。力の衰えた老婆でも、兵営の朝の飯炊きぐらいはできるでしょう」。

 真夜中の闇に、家人のかすかなむせび泣きが聞こえた。その後、下吏は老婆を連れて去ったらしい。

 夜明け方、杜子美はまた西への旅路についた。昨夜逃げて身を隠していた老翁が、その旅立ちを見送ってくれた。(了)

(鳥飼聡)

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