【党文化の解体】第2章 (21) 「現代科学の宣揚は、信仰の自由を抑圧するため」

4) 現代科学を宣揚する本当の目的は、信仰の自由を抑圧するため

 中共政権が誕生したばかりの時から、中共は絶えず全国規模で、いわゆる 「封建的な迷信を打破する」運動を展開してきた。近年は、さらに「科学を尊ぶ」というスローガンを付け加えた。ここ数十年来、学校の教材は中共が制定した教学綱領に従って編集され、教科書の内容は中共の「社会発展史」や「唯物弁証法」の論拠となり、中共の理論宣伝と矛盾が生じないように編集された。

 中共はまた「科学技術普及法」を制定して、ほとんどの都市に政府が出資した「科学技術館」や「科学普及所(科普站)」を設立した。これらの施設を設立した主な目的は、「党中央」の方針に従って全国的に「科学普及運動」を行い、「迷信を打破」し、「邪教に反対する」などの宣伝活動を行なうためである。

 数十年の宣伝により、大多数の中国人の脳裏には、科学最優先という硬直した観念が形成されただけでなく、それが政治的な問題だと認識させられた。これによって、「科学に反する」ことや「封建的な迷信を行う」ことは、個人的な信仰の問題だけではなく、国を台無しにし民を台無しにする行為になり、ひいては全国民が一致して誅殺しなければならない「犯罪行為」となった。

 事実上、現代科学がより発達した西洋国家では、政府が科学を信奉しているからといって個人のいかなる信仰をも批判したことはない。各大学で、学生たちは自由に各種の宗教団体を組織することができ、政府と学校側は干渉しないだけでなく、多元的な文化の繁栄を積極的に奨励している。

 西洋国家にも政府が支持する科学普及活動があるが、それらの活動は、「迷信を打破する」「偽科学に反対する」ことにまったく関係ない。このような活動の多くは、災難時の被害防止要領などを普及するためで、幼稚園や小学校からすでに災難被害の防止対策などの教育を始めており、火事、台風、地震、津波などの非常事態が発生した際に、個人の対応能力が常に訓練されている。

 しかし、中国では中共の教学綱領にはこのような内容がないだけでなく、災害が頻繁に発生する地域でもこのような内容は現地の科学技術館、科学普及所の重点活動内容にもなっていない。当然ながら、中共が現代科学を宣揚する目的は、国を強くし民を豊かにするためではなく、自由な信仰を抑圧するためである。

 本来なら個人の信仰は全く個人的な行為であり、中共自身が制定した憲法にも、公民の信仰の自由が明記されている。しかし、中共は「科学」という大旗を掲げて、「正々堂々」と各種の宗教信仰に「迷信」や「反科学」などのレッテルを貼り、人民を「愚昧」にさせ、「落伍者」といった罪を着せる。そうして、自由な信仰を排除する者は、科学の擁護者ということになり、さらには愛国主義者として称えられる。

 中共が政権を樹立して間もなく、1950年から全国各地でキリスト教、カトリック、道教、佛教などの「迷信」組職を解散する運動が大規模に展開された。このような組織のメンバーたちは、自ら政府に「迷信」の信仰を放棄すると届け出るよう要求された。もし、指定期間内に届けを出さなければ、調査によって発見された場合、厳罰に処されることになる。1951年に中央政府は、引き続き宗教活動を行なっている者を死刑または無期懲役に処するという規定を頒布した。不完全な統計によると、この時期に少なくとも300万人の宗教信徒たちが逮捕され殺害されたという。

 

 1999年、中共は民間の修煉法である法輪功を弾圧し始めた。この時にもやはり「科学を尊び、迷信を打破する」というスローガンを土台にして、「邪教に反対する」という名目で法輪功を弾圧した。その後、他の気功門派と地下教会に対しても弾圧を行なった。警察当局がキリスト教地下教会の信徒を逮捕する理由は、「神を信じることは、党に反対すること」だからだ。根本的な原因をつきつめてみると、無神論を基礎にする中共独裁政権は、民間の信仰を許すことができないばかりか、「党中央」の上にさらに至上の神が存在していることを受け入れることができないのだ。

 

法輪功学習者「なぜ私を捕まえるのか?」、警察官「法輪功の練習は違法だからだ!」(イラスト=大紀元)

中共は進化論と現代科学の宣揚を通じて、党文化の理論的な根拠である無神論を確立し、甚だしくは人々の耳目をひく「科学無神論」という言葉まで発明した。しかし、科学的な倫理から言えば、共産党は無神論の成立をまだ証明していない。

 正統な宗教的観点によると、人は神が創ったものであり、人が神の存在を否定することは、実験室の培養シャーレの中にある細菌が人の存在を否定するようなものである。何故ならば、現代科学の実証方法から言えば、無神論を実証しようとすると、必ず宇宙のすべての空間と時間範囲で神の存在を否認しなければならないが、ここには当然人類がまだ認識さえできていない空間と時間の範囲が含まれるからだ。

 宇宙はこれほど大きく多様で複雑なのに、そのマクロからミクロまでの物質空間の中で、人だけが高級生命だと誰が保証できるのか。生命の存在形式は、私たちが分かっているタンパク質、アミノ酸に依存する形式に限られていると誰が保証できるのか。さらに言えば、現代宇宙物理学の研究では、人類が観測することのできない暗黒物質が宇宙空間の3分の2を占めているという。言い換えれば、たとえ人類の現存観測技術を総動員しても、相変らず宇宙の3分の2は未知に属するということだ。

 現代理論物理学で唱えられた「膜宇宙理論」によれば、私たちの宇宙はただ私たちが認識することができる3次元空間だけではなく、幾多の空間が多層膜の形式で超空間の中に存在していると認識されている。言い換えれば、他の空間が存在する可能性があるというのだ。それなら他の空間に高級生命が存在しないと誰が保証できるのだろうか。もし他の空間に高級生命が存在し、しかも、その中の生命は人類を遥かに超越した大慈悲を持ち、宇宙真理を洞察した高い知恵と人間の想像を超えた能力を具えていれば、人類にとって、このような生命は佛、道、神ではないだろうか。故に論理的にも技術的にも、もちろん科学的な角度から言っても、無神論を立証するのは不可能な事だ。

 ここでは、個人が無神論を信奉することに反対しているのではない。一人の個人として、神を信じようが信じまいが、それは非難するにはあたらない個人の自由な選択だ。正常な社会では、有神論の信仰と無神論の信仰とは共存してもよいはずだ。しかし、政府が強制的な手段で社会全体に無神論を押し付け、神を信仰する人を弾圧することによって、社会全体が信仰を失ってしまえば、必然的に伝統的な価値観の存在基盤を失い、社会全体が物欲主義に傾き、欲望放任主義の泥沼に落ち入ることになるのだ。

 (続く)