三国志を解釈する(14)

忠義か不義か 献帝を取り巻く人々が現した義

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作者の羅貫中は、『三国志演義』を通して、「天地人」の三才という形で天人合一の人文観を伝えるようとして、主導的な力は天にあることを人々に知らせようとし、同時に地上の人々が様々な形で義を「演じる」ことを表現しようとしていました。

漢の末期では、「帝ではない帝、王ではない王」という奇妙な歴史的現象が長い間続いていましたが、この特殊な時期において人々は違う形で「義」を演じるのです。つまり、朝政が不安定で、皇帝の実権が不確定の時期で、人によって「義」に対する理解や実践が異なり、「義」の現れようも異なり、豊かです。

正式な君主がある時期の義の現れ方

『三国志演義』で最初に登場したのは、「桃園で結義する」という話です。劉備関羽張飛の三人が、黄巾軍の反乱を鎮め、国の平和を取り戻すという目標のために結義しました。国のために力を捧げようと思っています。作者はこの物語を描きながらも、劉備三兄弟の「義」に対する理解や実践の姿を描写することを忘れていません。

劉備は、関羽と張飛との結義の目的を果たし、幽州の太守に協力して反乱軍を撃退しました。その後、師である盧植が中郎将として軍を率い、広宗で張角と対峙していることを知り、師のため、国のため、すぐに幽州を離れ軍を率いて盧植のもとに行き、戦いに協力しました。

盧植に会った劉備は、朱儁と皇甫嵩が率いる軍隊の情報を調べるように言われ、直ちに夜道を歩いて颍川まで行きました。朱儁と皇甫嵩に会った劉備は、張角の二人の弟である張宝と張梁が敗北し、広宗に逃走したと聞き、また急いで広宗に戻ろうとしました。

その後、途中で盧植が投獄されたとの情報を耳にしました。盧植は張角の妖術によって勝利を阻まれていましたが、朝廷から派遣された使者は盧植から賄賂を受け取っていなかったため、偽りの情報を朝廷に報告しました。盧植はそのために解任されて投獄されましたが、代わりに董卓が軍を率いました。

劉備は、盧植を助けようとしても仕方がないので、幽州涿郡に戻ることを計画しましたが、漢軍が大敗しており、途中で張角に敗れ逃走している董卓に出くわしました。劉備三人は何も言わずに危険を犯しながら董卓を助けました。

董卓は当時、河東の太守を務めており、残忍で傲慢で無礼な男で、劉備に助けられたにもかかわらず、感謝の意すらありませんでした。それだけでなく、劉備が官職を持っていない一般人だと聞いた董卓は、更に無礼な態度をとるようになりました。

張飛は激怒して非義の董卓を殺そうとしましたが、国の重要な役人は殺せないという理由で、劉備と関羽に止められました。しかし、張飛は、このような不義理な男を殺すことはできなくても、その命令に従うことはできず、たとえ二人の兄が董卓に従うことを選んだとしても、自分はそうはしないと言い張りました。

兄弟三人は正義を守り、共に進退すると誓ったため、仕方なく劉備と関羽は、董卓のもとを離れて、朱儁の所に向かいました。彼らは朱儁に協力して、張宝を滅ぼして、反乱を平定するのに大成功を収めました。

ここには、劉備三人が義を実践している姿が描かれています。自分の地元の涿郡を守り、師匠に協力して師の恩に報い、董卓を助けて漢軍の敗戦の流れを変えました。これら全ては個人的な利益のためではなく、国のため、誓いや義理を果たすためでした。

董卓を助けたのは、彼が朝廷から命令を受けた重要な役人からです。董卓を離れたのは、彼が傲慢で義理のない者だったからです。真っ直ぐで正義感の強い張飛は、董卓の性格を知り、不満を隠せませんでした。これは「賢い大臣は主君を選んで仕える」ということの現れです。

このような君主と臣下の関係、上司と部下の関係は、まさに義理にかなったものです。張飛らが董卓のもとを去ったのも、趙子龍や徐庶や諸葛亮が劉備を選んだのも、全て正義を求めるためです。

一方、劉備には劉備なりの考えや選択があります。霊帝は、当時の朝廷の正統な支配者で、決定的な地位を持つ権力者です。皇帝の命を受けた、軍を率いる将軍たちを殺すことは、国を裏切ることに等しく、名目上は不適切だと思われます。なので、劉備は最も合理的な判断を選び、董卓を殺すのではなく、離れたのです。これは、国に正式な君主がある時に、劉備、関羽、張飛の三人が義理に従う選択なのです。

正式な君主がない時 義の現れ方

中牟県の県令である陳宮は、董卓を暗殺するという曹操の義挙を支援するために自ら官職を辞めて、捕らえられた曹操を命がけで釈放しました。後に曹操が董卓を潰すために故郷に戻って義兵を集めることを知り、曹操に服従することに決意しました。

しかし、途中で呂伯奢の家に泊まって曹操は、猜疑心のため、呂伯奢の一家を殺してしまいました。(小説では曹操は奸雄として描かれており、歴史書にある本当の曹操とは違うところがあります)

陳宮は、最初は義理のために曹操に従って忠実に補佐することを選びました。しかし、曹操の暴行を目にした陳宮は、彼から離れることにしました。曹操から離れたのは、自分の才能が不道徳なことに使われたくないと考えたからです。曹操を殺さないのは、自分の初心や義理に従うからです。これは古来人の忠義に対する考え方です。

その後、呂布に従った陳宮は曹操に捕らえられましたが、曹操に降伏せず、死ぬまで後悔しませんでした。これは、国に有力な君主がない時、義の果たし方です。実権を持たない漢献帝を本当の君主だとは思うことができなかったため、臣下は各自の見込んだ人を補佐するようになりました。陳宮は呂布を補佐することに選んだので、呂布のもとを離れずに、忠誠と義理を貫き、自分の生死をも惜しまなかったのです。

曹操の話であれ、陳宮の話であれ、小説に書かれているフィクションかもしれませんが、作者は、これらの物語を通じて、有力な主君がない時に、古代の人々がどのようにして義を選び、行動したかを具体的に示しているのです。

しかし、有力な主君がいなかったと言われても、漢王朝はまだ存在し、漢献帝という名前もまだ存在し、それに、乱暴や残忍なことをせず、慈悲深いので、彼を主君とすることも正しいことでもあります。国に明確な主君がいないという考え方と、明確な主君がいるという考え方は、どちらが間違っているとは言えず、当時はどちらも適用することができたのだと思われます。これらは義の表れ方が違うだけなのです。

盧植の義挙 進言後に辞任

何進は盧植の助言を聞かずに、董卓を都に引き込んでしまいました。そこで盧植は、董卓が自分の上司になり間違った命令に従わなければならない可能性もあると思い、正式ではない君主のために、臣下としての忠義を尽したくない立場に立たされるのを厭い、辞職しました。

しかし、辞職前に、宦官たちが少帝を拉致するのを目撃し、少帝を見捨てることができず、盧植は皇太后と少帝を救い出し、また董卓が皇帝を廃位しようとする動きに対しても命をかけて論破しました。盧植は、離職の前に最後の義理を果たし、最後まで仁義を貫き、真の君子だったと言えるでしょう。

以上の物語は、古代人が義理人情についてどのように考えていたか、愚かな忠誠心をどのように回避していたか、自分の行動をどのように選択するかについて、詳細に説明しています。有力な君主がいる場合といない場合、違う状況のもとに違う考え方が共存し、義を追求する行動や選択の違いがここには示されています。

曹操、袁紹、呂布といった強者に従う人々の選択は、明確な君主がいない場合の義に対する理解と実践です。一方、漢王族に忠誠する劉備に従う人々の選択は、漢献帝を明確な主君として認める場合の義に対する理解と実践です。

作者はこの特殊な時代を通して、異なる視点から義の意味合いを具体的に示してくれています。実権を持たず、「皇帝ではない」漢献帝は長期間にわたって在位するのは、このためかもしれません。

(翻訳担当・柳成蔭)