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岳飛の物語(二)

岳飛の軍歴は北宋の宣和4年(西暦1122年)に始まる。 当時、真定(現在の河北省)宣撫の劉韐徵は「戦う勇気のある武士」を募集しており、19歳の岳飛は応募し、国に仕える道を歩み始めたのである。 岳飛は軍隊に入るや否や、強い愛国心と生まれつきの武勇を発揮した。 

真定には凶悪な盗賊の陶俊と賈進和が反乱を起こした。岳飛は百騎兵士を誘って彼らと戦わせた。彼は兵士を派遣し商人に変装して賊の内部に入り、待ち伏せ、要塞の下に100人の待ち伏せ兵を用意した。手配した後、岳飛が自ら数十騎兵を率いて賊の城を挑発し賊が出陣すると、岳飛は逃げるふりをして賊をおびき寄せ、待ち伏せで対応し、準備が整う前に背後から追いかけた。 

一方、城塞内の先遣伏兵は、同時に盗賊王を捕らえ、陣営に戻った。 これは、岳飛の知恵と勇気を示す最初の勝報であった。 岳飛の「勇気、知恵、才能は歴代の将軍の中でも群を抜いている」と、東京守護職の宗沢氏を感心させたのである。 岳飛は秉義郎の位に昇格した。 

靖康の乱の後、康王・趙構は宋の高宗皇帝として即位した。 岳飛は数千字の手紙「南京の高宗書簡」を提出し、高宗に中原の回復を促した。 南に移っていたハト派はそれを許さず、岳飛を「越権」で有罪にした。

岳飛の国のために尽くしたいという思いは変わらず、河北省の招討使(官職)張所に会いに行った。 張所は彼を国士として扱い、軍の指導者に任命した。 彼は、「君はどのくらい戦えるのか」 と尋ねた。 岳飛は「勇気だけではダメで、まず計画を立てること」と答えた。そして、軍略の説明や国を守るためのアドバイスをしたところ、張所は「君はただ者ではない」と感心し、 岳飛は昇格することになった。

紹興4年から10年(西暦1134-1141年)の7年間、岳飛は宋高宗皇帝に重用されて、宋の歴史を照らす歴史的な戦闘を行い、聖なる忠誠の遺産を残したのである。 岳飛は漢陽と鄂州に軍隊を駐屯し、岳飛の襄陽周辺六郡は中原を回復するための最重要地となった。 

紹興4年、岳飛は荊南・鄂・岳州の制置使(官名)を解任され、軍馬守を担当することになった。 岳飛は「襄陽を含む6郡は中原復元の基礎となる郡なので、まずこれを攻略し、最も心配していることをなくすべきだ」と戦略を披露した。宋高宗皇帝は、宰相・趙鼎に尋ねた。

その後、宋高宗皇帝は岳飛を黄州、復州、漢陽軍、徳安府の制置使に任命した。 こうして、岳飛の南宋復興計画が始まった。

就任5日目、岳飛は指標城寨郢城(現武昌)の城と初戦を交えた。 王朝は北宋が滅亡した後、中国北部に傀儡政権を樹立し斉と名乗った。この時、鄂州の都、郢城を支配下に置いていた。

岳飛は川を渡って中流域に入ると、部下を見回しながら「盗人を捕まえないなら、この川は渡らないぞ」と誓った。 岳飛は兵を率いて都に向かい、郢城は復帰された。

(翻訳・李明月)