岳飛――岳飛の物語(一)【千古英雄伝】

岳飛(西暦1103〜1141年)は、北宋から南宋時代の変わり目に生まれ、相州湯陰(現在の河南省)の出身である。彼が生まれたとき、家の上に大きな鳥が飛んできたので、家族は彼を「岳飛」と名付け、字は「鵬挙」とした。

岳飛が生まれて一か月たたない頃、ある日の事、黄河の堤防が決壊して洪水が押し寄せてきましたが、母の姚氏は岳飛を抱いて大きな甕(かめ)に座って、波の流れに身を任せ、その後、甕は岸に流され、親子はちっとも傷がなく無事だった。

岳飛の父親である岳和は、忠実で温厚であるようにと子供に教え、自らを愛すように他人も愛していた。 家は貧しかったとはいえ、岳父は倹約して、食べ物を節約して飢えている人を救済した。

岳飛は少年の頃より勤勉で勉強熱心だった。『宋史』には、岳飛は「気骨の強い少年で、しっかり者で口数が少なく、貧しい家の者だったが勉学に励み、特に『左氏春秋』、『孫呉の兵法』が好きだったと書かれている。岳飛は生まれつき超人的な力を持ち、成人する前には弓300斤(150キロ)と弩弓八石(張力約509キロ)を引き絞ることができた。

師匠の周同から弓術を習い、師匠の技術をしっかりと学んで身に付けた岳飛は師よりも秀でて左右に矢を射ることができた。 そして周同の死後は、岳飛は朔望日(旧暦の1日と15日)たびに、お墓参りをした。 父親は彼の義理人情を称え、彼が「国のために献身する」勇気を持っていることを知っていた。

岳飛の父親は若くして亡くなったが、幸運にも母親からも精神的に良い教育を受け、国に忠実に奉仕するように励ましを受けた。

岳飛の功績は、神通力ではない。「文武両道、博愛と智慧」によるものだった。 このことは、『宋史』の中で「前漢以降、韓、彭、絳、灌など多くの将軍がいたが、文武両道、博愛と知恵備えた岳飛は世代の中でも多くはない」と賞賛されていることからもわかるだろう。 岳飛の文武両道の万能な才能と智慧は、金王朝との戦いで発揮された。

岳飛は19歳の時には二百余戦の軍務に従事し、いずれも失敗することはなく、全戦勝利した最も成功した将軍であった。 岳飛は、兵法について「仁、智、信、勇、厳、いずれも欠くべからざるものなり」と述べている。

岳飛の気迫と神通力に感化された兵士たちは、これまで以上に岳飛を敬愛し、多くの敵将が岳飛に味方に勧誘されたり、自ら降伏して岳飛の右腕となった。岳飛に率いられた宋の軍隊は厳格な軍隊ルールと高い道徳観を持ち、飢えていても民から略奪したりしない将軍たちを見た敵の金の兵士たちは、『これが岳飛の軍隊だ』と知り、降伏した。

岳飛は、宋の皇帝、高宗に宛てて「出兵懇願書」を書き、

「国が変わってから、私は白い家(庶民の比喩)から出世しましたが、本当に我が身を犠牲にして国のために尽くし、雪辱する心があります。秦の二人の聖人を祖先に返すことで、「廟(一族の祖先の霊を祭っている)が再び落着き、万姓(人々)が共に幸せになり、陛下が北方の心配から解放されて安らかに眠れるようになります」と一生の志を述べた。

岳飛の願いはただ一つ、「国のために尽くしたい」という悲願を叶えることだった。 高宗は岳飛の「出兵懇願書」を読んで、「このような大臣がいれば、どんな悩みがあるのだろうか」と言った。 残念なことに、高宗はあまりにも不確かで、裏切り者の秦檜の言葉に耳を傾けてしまったため、千年の悔いを残してしまった。

(翻訳者・李明月)