果たして人魚は本当に実在したのか 

歴史の中で異教徒の神への崇拝が禁じられていたこともありましたが、人魚やその他の生命は、日々盛んになっていくキリスト教信仰の脅威とみなされていませんでした。

それはどうしてだったのでしょうか。一部の作家たちは教会が人魚の伝説を信じているからだと考えています。古代から現代まで多くの作家たちは、人魚に関する話を、教会で見つけた人魚に結びつけています。

中世では、人魚が鏡をもって櫛で髪をとかしている姿がシンボルとなり、これは男性の意志をも打ち抜く女性の美を象徴しています。

1403年、オランダのウェスト=フリースラントでは、嵐が過ぎ去った後、泥まみれになって困っている人魚を発見した現地の人々が、彼女を家に連れ帰り、服を着させ、食べ物を与えました。

言い伝えによると、彼女は15年間生きていたそうです。その間、彼女は逃亡を図ろうとしましたが、結局逃げられませんでした。人々は彼女に十字架の前に跪くことを教えましたが、彼女は始終言葉を話すことはできませんでした。

旧約聖書』の中にも記載があります。ヘンリー2世の頃、ある漁師が人の形をした魚を捕まえました。その人魚は話すことができず、生魚も火の通った魚も食べ、2か月後、海に逃げて行ったといいます。

文学作品においても、人魚は女性を意味しており、比喩として使われています。

ジェフリー・チョーサーは人魚を優雅で知的な女性に例えており、ウィリアム・シェイクスピアは『間違いの喜劇』(間違いつづき)の中でこのように書いています:

「美しい人魚よ、あなたの歌で私を惑わしてお姉さんの涙の大海原で溺れさせないでください。 
(O, train me not, sweet mermaid, with thy note,
To drown me in thy sister’s flood of tears.)」 

(翻訳編集・天野秀)