砂漠を越え九死に一生を得た 玄奘三蔵の生涯(中)

玄奘法師は、しばらく多くの寺院を訪ねて勉強した後、何年間にもわたって、さまざまな場所で仏典を講義し、問答をしている中で、特定の問題について人々の意見や解釈が大きく異なっていると感じました。

唐代の貞觀元年(西暦627年)、玄奘は経典を学ぶために西方に行き、寺院で経験を積む決心をしました。しかし、唐が成立した当時はまだ国境が不安定で、国外への出国は非常に厳しいものでした。彼はインドに行く許可を申し出ましたが、許可されませんでした。したがって、西方に行きたいなら、密出国しかありませんでした。

ところが、その年は飢饉だったため、朝廷は人々が外地で生計を立てることを許可しました。これを機に玄奘は西の西安から秦州、蘭州、そして涼州へと旅をしました。

玄奘は武術を鍛錬している石盤陀(イシ・バンバ)という異民族の男を見つけ、護衛役にして峠を越え、死の砂漠と呼ばれたタクラマカン砂漠を密かに通り抜けました。しかしその後、石盤陀は道中の苦難に耐えきれず、一行から離れました。ところが、峠にはまだ難所があり、玄奘は警戒が必要でした。

あるとき、玄奘が見張りの前を通りかかったとき、見張り役の兵士に見つかってしまい、尋問されました。しかし偶然にも、その兵士は仏教徒で、西方へ行って経典を学びたいという玄奘の気持ちが伝わると、玄奘を自由にしてくれました。それから玄奘は一人で、危険を冒してまでもひたすら歩き、月と星の輝く夜空の下、広大なゴビ砂漠を抜けようとしました。

玄奘は疲れ果て、喉も渇き、ついに目がくらみ、倒れてしまいました。すると突然冷たい風が吹き、目覚めた彼が再び歩き始めると、奇跡が起こりました。荒れ果てた砂漠にオアシスが現れたのです。玄奘は湧き水を見つけました。まるで救世主が与えてくれたかのようなこの湧き水のお陰で、彼は生きのびることができました。

砂漠での困難な旅は、言葉で言い表せないほどです。

大唐西域記』では、

「空を飛ぶ鳥、この大地に動物、植物、人間は存在しない。ある時は砂嵐で石も転がり、ある時は激しい雨で蒸し暑く、またある時は、水や食料がなく、失神してしまうこともある。あるときは壊れた剣、戦場の残骸が見え、凶暴で恐ろしい幽霊が出るかのような場所だ」

と述べており、砂漠への旅は生死を彷徨うような体験であることを物語っています。

玄奘たちはこの死の砂漠を抜け、高昌という国に到着しました。国王の曲文泰は敬虔な仏教徒であり、玄奘から仏典を学びたいため、使節を派遣して彼を迎えました。

玄奘の到着を、まるで貴重な宝物を手に入れたかのように、国王は敬意を表し、自分の兄弟のように迎えました。国王はまた、玄奘をこの国に何とかこのまま滞在させておきたいと考え、「滞在を拒否した場合、中国に送り返す」と玄奘を脅しました。

玄奘は断食を以て抗議し、滞在を拒否し、ついに国王を説得して自由になりました。国王は玄奘を護衛するために2、30人の従者を付け、服を着させ、そして多くの馬と宝物を贈りました。

その後、玄奘は天山山脈の南麓に沿って西に移動し、神秘的なパミール高原を通過し、アフガニスタンを通過し、インド北西部のカシミール王国(現在のカシミール)に到達しました。

その後、再び旅は困難な道のりとなり、一年中雪をかぶった山々を乗り越え、人のいない大きな砂漠を越え、白い馬を率いて冷たい雪山の小道を通らなければなりませんでした。道を踏み外すと奈落の底に滑り落ちてしまう危険がある場所です。

一緒にいた仲間の商人の何人かは、この雪山で凍死したり、深い谷に滑り落ちて死んでしまいました。 『玄奘西遊記』には、「何千年もの間、凍ったままの死体が無数にあり、私でさえ深い谷の底を見られなかった」とあります。この旅の中で遭遇する危険は確かに無数にありましたが、7日間の旅の後、玄奘はついに氷河と雪の尾根を越えました。玄奘は一気に前進し、目的地のインドまで歩き続けました。

(翻訳・微宇)