「宴桃園豪傑三結義」(金協中作/パブリックドメイン)

友人間の義【雅(みやび)を語る】

前回は、精神的に支え合ってくれる友人を大切にすべきことを話しました。これ以外に、友人間で大事にしなければならないのは「義(義理)」です。

三国時代はまさに「義」とは何かを後世に伝えています。劉備曹操諸葛亮、張飛などの武将のことを多くの人が知っています。中でも忠義を貫いた武将がいます。それが関羽です。では、関羽は何をしたのでしょうか。

劉備、関羽、張飛の3人は意気投合し、生死を共にすると義兄弟を結びました。ところが、史料によると、ある年の戦いで、関羽は劉備と張飛と離れ離れになります。

関羽は、劉備の2人の夫人を守るため、3人が交わした誓約に背かないために、一時、曹操に降伏しました。曹操は関羽を非常に気に入り、自分のもとに留めるために権力や財産、多くの美人を与えました。しかし、関羽は全く動じず、「助けてくださった恩を返した後、兄(劉備)のもとへ帰ります」と曹操に言いました。

関羽像 柳沢淇園筆 柳沢伊信賛 絹本着色 東京国立博物館(パブリックドメイン)

史書によると、紀元200年4月、袁紹と曹操が戦いを繰り広げました。当時、袁紹の兵力は曹操より増していたので、将軍の顔良を遣わして、白馬という場所を包囲しました。曹操は張遼、関羽を将軍とし、両軍は対峙しました。当時、顔良はすでに名将として名が通っていましたが、関羽は全く怯えず、顔良の首を斬りました。主将が殺されたことで袁紹側の軍隊は乱れ始め、曹操はこの隙に乗じて、袁軍を負かしました。

白馬の戦いで関羽は大きな功績を収め、曹操は朝廷に上奏(天子に申し上げる)して、関羽は「漢寿亭侯」と封じられました。

しかし、関羽はこの戦いで曹操に恩返しをし、また、劉備たちの居所もわかったので、曹操のもとを離れることを決めました。皇帝から授かった官印と曹操がくれた財産をそのまま残し、降伏当初から一緒だった20人余りの兵士たちと劉備の2人の夫人を護衛しながら劉備のもとへと向かいました。

関羽にとって、兄弟間の義理に勝るものはありません。三国時代の英雄は多くいますが、関羽だけが、その生涯をもって「忠義」という2文字が表すその深い意義を解釈しました。関羽の死後、曹操は洛陽で、孫権は当陽で、劉備は成都で関羽の墓を建てました。孟子は、「富にも溺れず、貧乏にも挫けず、脅しにも屈しない、これぞ立派な男である」と言いました。人間として、権利や富、貧困、脅しでさえその人を屈服させることができなければ、その人は真の男と言えるでしょう。

(翻訳編集 天野秀)

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