「宴桃園豪傑三結義」(金協中作/パブリックドメイン)

友人間の義【雅(みやび)を語る】

前回は、精神的に支え合ってくれる友人を大切にすべきことを話しました。これ以外に、友人間で大事にしなければならないのは「義(義理)」です。

三国時代はまさに「義」とは何かを後世に伝えています。劉備、曹操、諸葛亮、張飛などの武将のことを多くの人が知っています。中でも忠義を貫いた武将がいます。それが関羽です。では、関羽は何をしたのでしょうか。

劉備、関羽、張飛の3人は意気投合し、生死を共にすると義兄弟を結びました。ところが、史料によると、ある年の戦いで、関羽は劉備と張飛と離れ離れになります。

関羽は、劉備の2人の夫人を守るため、3人が交わした誓約に背かないために、一時、曹操に降伏しました。曹操は関羽を非常に気に入り、自分のもとに留めるために権力や財産、多くの美人を与えました。しかし、関羽は全く動じず、「助けてくださった恩を返した後、兄(劉備)のもとへ帰ります」と曹操に言いました。

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中国の歴史上、最も尊敬されている人物に、あの有名な「関羽」が挙げられる。
中国の歴史上、最も尊敬される人物の中には、あの有名な「関羽」が挙げられます。関羽に対する崇拝は三国時代からすでに始まりました。当時、関羽が亡くなってから、魏、呉、蜀三国は共に彼に尊敬の意を表しました。孫権は関羽の首を曹操へ送り、曹操は諸侯の礼を持って彼の首を洛陽に葬りました。一方、孫権は諸侯の礼をもって彼の胴体を当陽に葬り、蜀漢は成都で彼の装束を埋葬する墓、すなわち成都に関羽の墓を作りました。そのため、民間の間では「関羽は洛陽を枕にして眠り、体は当陽に横たわり、魂は故郷に帰した」という言い伝え
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