清代の姚文瀚による《摹宋人文会図巻》部分(パブリックドメイン)

「幽霊」が暴露した2つの冤罪 その判決は如何に(上)

紀昀(きいん)の著作『閱微草堂筆記』より「幽霊が自身の冤を訴える話」を2つ、ご紹介します。1つは、本当の幽霊による真実の証言。もう1つは、ニセの幽霊による偽証言です。

 

幽霊がとり憑き、真実を語る

の乾隆15年(1750)に、政府の倉庫から玉器(工芸品)が盗まれる事件が発生しました。衙門(担当の役所)は、すぐに政府の園林ではたらく下僕を集めて、1人ひとり調査しました。調査官はその日のうちに、下僕たちの主人である常明にも尋問しています。

常明が、その問いに答えていると、突然子供の声に変わり、こう言ったのです。「この男(常明)は、玉器を盗んではいませんが、人を殺しました。この男が殺した相手は、私です」

この奇怪な現象に、調査官は驚きました。そこで、この事案は刑部(ぎょうぶ)に送られ、紀容舒と余文儀が審議を担当することになりました。

刑部の堂前に引き出された常明に向かい、紀容舒と余文儀が尋問を続けます。

常明にとり憑いた幽霊は、自身が受けた冤罪による恨みを語り始めました。

「私は李二格。今年14歳です。家族は海定に住んでいます。父の名は李星望です」

幽霊となって常明にとり憑いた「李二格」の話によると、おととしの元宵節(小正月)の際に、李二格は常明とともに、賑やかな「干支の灯篭」を見に行きました。その帰り道、あたりは寝静まった夜でしたが、常明が李二格をからかっていじめたのです。

李二格は驚き、常明に極力反抗しました。また、常明にいじめられたことを「父(李星望)に言うぞ」とも言いました。常明は、自分の行為が暴露されることを恐れ、そこで李二格を殺してしまいました。

幽霊は、こう続けます。「常明は、衣服をつかって私を絞め殺しました。その後、私の遺体を河辺へ埋めたのです。父は、常明が私を隠したのではないかと疑い、京城(北京)の公安部門へ通報しました」

この案件が刑部へ移された後も、常明が殺人犯であるという証拠は見つかりませんでした。そのため、李二格が失踪した事件については、改めて真犯人を探すことになりました。

しかし、それ以来、李二格の幽霊は、いつも常明にとり憑くようになりました。これを聞いた紀容舒と余文儀は非常に驚き、再度、李二格(の幽霊)が語った日付の記録を調べると、確かに父(李星望)からの訴えがありました。また、その河辺に人を派遣して調べたところ、本当に李二格の遺体が見つかったのです。

父は、まだ腐乱しきっていない李二格の遺体を見て「私の息子だ!」と涙を流しました。李二格(の幽霊)が語ったことは、家内の細事に至るまで、全て一致していました。

取り調べ官である紀容舒と余文儀は、この事実を常明に突きつけて「罪を認めるか?」と問いました。常明は、内心では夢から覚めたような思いがしていましたが、まだずるがしこく言い訳をして、自身の罪を認めようとしません。

すると再び、李二格(の幽霊)が常明にとり憑いて、子供の声で語り始めました。常明は、ついに隠し切れなくなり、自身の罪を認めざるを得なくなりました。

この事案を担当した1人である紀容舒は、清代の内閣大学士・暁嵐(紀昀)の父親です。紀昀の著作である『閱微草堂筆記』に、この話が出てきます。

(つづく)

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