ある冬の日、女帝武則天は庭園での遊覧中に、百花を咲かせるよう命令を下します(大紀元)

女帝、武則天の命令で咲く百花 焦骨牡丹の秘密

これは一つの異聞・伝説です。

伝えられるところによると、唐の天授2年(691年)の冬、女帝・武則天(624〜705年)は、ふと興を催し、十数人の侍従を連れて皇家の庭園――上苑を遊覧しました。

あたり一面雪に覆われ、木々は葉を落として荒涼とした様子に、彼女の心は晴れず、顔にも憂いがにじみました。

そんな彼女の気持ちを察した者が一計を案じ、「明日、百花を咲かしめ給わんよう、御詔を賜りたく存じ上げます」と進言しました。武則天はその提案を受け入れ、即座に五言詩を一首詠み、これを詔書としました。

明朝遊上苑,火速報春知。

→明朝(みょうちょう)、上苑(じょうえん)に遊ばん。火(ひ)を以て速やかに春の至りを知らしめ、

花須連夜發,莫待曉風吹。

→花は須(すべか)らく夜を徹して咲き発(ひら)くべし。暁の風を待つこと莫(なか)れ。

この「詩詔書」の意味は、私が明日の朝に上苑を遊覧するため、火急に花神に知らせ、すべての花を夜のうちに咲かせ、翌朝の風を待つことなく開花させる、というものです。

「詩詔書」を書き終えた後、武則天は自ら人を遣い、花園に持参させて焼き、花神に告げ知らせました。

翌朝、寒冷な雪の中で、実際に百花が一斉に咲き、色とりどりの美しい花が広がっていました。

しかし、ただ一輪の牡丹の花だけが咲かなかったのです。

武則天はそれを見て大いに怒り、侍従に命じて、牡丹の茎を焼くようにし、これを懲罰としました。頑固な牡丹は、女帝の威光に屈せず、焼かれてもなお花を開くことはありませんでした。

武則天は非常に怒り、恥じらいもあって、牡丹を長安から洛陽に追放しました。それ以来、洛陽の牡丹は次第に増え、繁盛していったと言われています。

伝説によれば、火に焼かれたその牡丹は、洛陽に追放された後、新たな姿に生まれ変わり、洛陽の人々はそれを「焦骨牡丹(しょうこつぼたん)」または「黒牡丹(くろぼたん)」と呼んだそうです。

 

(翻訳編集 陳武)

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