そもそも「成人」って何だろう?  成人の日に見直してみる大人と子どもの境界線

2026/01/11
更新: 2026/01/11

いま、「成人」という言葉は、主に「年齢」を表すものとして使われています。「何歳からが大人か」という数字の話はよく耳にしますが、その言葉が本来どんな意味を込めて使われてきたのかを考える機会は、あまり多くありません。しかし、歴史をさかのぼれば、成人は決して年齢だけで区切られるものではありませんでした。

昔の社会において、誰を大人と認めるかは、非常に重みのある判断でした。何をもって「一人前」とするのかは、その土地の暮らしや、大切にされている教え。つまり民族的な信仰や宗教と深く結びついていたからです。

日本における神道や仏教、欧米諸国のキリスト教、アラブ諸国のイスラム教、それぞれの文化において「人は何を大切に生きるべきか」という答えが、そのまま「大人とはどうあるべきか」という考え方の芯となっていました。

例えば、キリスト教の文化圏では、自分の意志で信仰を誓い、一人の自立した信者になることが大人の証でした。イスラム社会では、社会のルールを自らの責任で守り抜く存在になることが求められました。また仏教の影響が強い地域では、社会に出る前に自分を見つめ直し、心のあり方を整える修行の時間が大切にされてきました。

これらに共通しているのは、成人が単に「自由が増えること」ではなく「どう生きるかを、自ら引き受ける立場になること」として捉えられていた点です。

日本でも、かつて成人は制度以上に「暮らし」の実感としてありました。「元服(げんぷく)」や「髪上げ」といった儀式によって名前が変わり、周囲からの見られ方も一変しました。それまでは「守られる子ども」だった存在が、家や地域を「支える一員」として認められる。その変化は、理屈ではなく日々の生活の中で肌で感じるものでした。

こうして振り返ると、成人という言葉には、かつて多くの「目に見えない前提」が含まれていたことが分かります。それは単なる誕生日の記録ではなく「どこに属し、どの立場で、誰のために生きるのか」という、人生の確かな手応えでした。

いま、こうした背景が語られることは少なくなりました。しかし、成人という言葉の奥底には、かつての人々が積み重ねてきた重い意味が静かに息づいています。その言葉が、いま私たちが想像するよりもずっと長く、深い時間を背負っていたことだけは、確かだと言えるのではないでしょうか。

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