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恩と愛の順序

恩を重んじる夫婦の絆 ―― 光武帝の賢臣・宋弘の逸話

現代社会では価値観の移り変わりにより、共に苦難を乗り越えた「糟糠(そうこう)の妻」との絆が軽んじられることも少なくありません。古人が重んじた「糟糠の妻は堂より下さず」という美徳や、夫婦間の恩義を重んじる精神は、現代においてはあまり意識されなくなっているかもしれません。

この諺は、後漢・光武帝の時代に宰相級の高級官職を務めた宋弘が述べた言葉として『後漢書』に記録されています。糟糠とは、飢えをしのぐための酒粕や糠などの粗末な食物を指し、「堂より下さず」とは家から追い出さないことを意味します。つまり、苦楽を共にした妻を棄てたり裏切ったりしてはならないという教えです。

宋弘はなぜこのように言ったのでしょうか?

歴史の記録によると、宋弘(字は鍾子)は景昭県長安県(現在の陝西省西安市)の出身とされています。彼の父・宋尚は、前漢・成帝の時代に少府(高級官職)に就いていました。しかし、哀帝の即位後、権勢を振るった宦官の董賢に従うことを拒んだため、不敬の罪で罰せられました。

宋弘は漢の哀帝・平帝の時代に宮廷侍従を務め、王莽の建てた新王朝のもとでも官職に就きました。温和な性格で、父の影響を受け学者としての誠実さも兼ね備えていました。新朝末に発生した赤眉の乱で反乱軍が長安を攻め、宋弘を自分たちの陣営の官僚として迎えようとした際、宋弘は固辞し、渭橋を通る途中で渭水[1]に飛び込みました。後に、幸いにも家族に救出されました。

光武帝は赤眉の乱の終結後、後漢を樹立すると、宋弘を太中大夫(高級官職)に任命しました。西暦26年(建武2年)には光武帝の功臣である王梁に代わって皇帝に次ぐ権威とされる大司空となり、「栒邑侯」という爵位を授けられました。宋弘は、受け取った俸禄を惜しまず一族に分け与え、自邸には余財を置きませんでした。その清廉さは人々から広く称賛され、光武帝は後に宋弘を「宣平侯」という爵位に改封しました。

[1]渭水:黄河の支流の一つ

光武帝劉秀が他の豪強を破り、新たな漢政権を樹立した後、宋弘は太中大夫に任じられた。イメージ図、明代 仇英『帝王道統万年図・漢光武帝』の一部。(パブリックドメイン)

 

光武帝に諫言する賢人を推挙

光武帝が学識豊かな人物を求めると、宋弘は博覧強記な知識人である桓譚(かんたん)を推挙しました。桓譚は学才に優れ、見識も広く、前漢の思想家・儒学者である揚雄や劉向・劉歆父子に匹敵すると評されました。光武帝は桓譚を召し、皇帝に政策の助言を行う参議と皇帝のそばで仕える侍従に任命しました。

その後、光武帝が宴会を開く際、桓譚はよく琴を弾かされました。しかし桓譚は、光武帝を楽しませるために、浮ついた卑猥な曲を常に奏でていました。これを聞いた宋弘は非常に不快に思い、自分が桓譚を推挙したことを後悔しました。ある日、宋弘は人に命じて宮殿の外で桓譚が出てくるのを待ち、彼を自邸に招き入れました。宋弘は正装して大広間で待っていました。

桓譚が到着すると、宋弘は礼に従って席に着かせることなく叱責しました。

「私はあなたが君主の徳を補佐することを期待して、皇帝にあなたを推薦しました。しかし今、あなたは幾度も卑猥な『鄭衛の音(下品な音楽を指す)』を演奏し、『雅』『頌』などの正しき雅楽を乱しています。忠正の士がすべきことではありません。自ら改めるつもりか、それとも私が法に従って正すべきか?」

桓譚は直ちに頭を下げ、自身の過ちを認めました。

しばらくして、光武帝は群臣を集め、再び桓譚に琴を演奏させました。しかし、桓譚は宋弘が同席しているのを見て非常に不安になり、演奏も以前の水準を保てませんでした。光武帝は不思議に思い、その理由を宋弘に尋ねます。

すると、宋弘は席を立ち、官帽を外して光武帝に謝罪しました。

「私が桓譚を推薦したのは、忠正の節をもって君主を導いてほしいと願ったからです。しかし今、彼は朝廷を『鄭衛』の好色に溺れさせてしまいました。これは私の責任です」

光武帝は厳格な表情で宋弘に再び官帽を被るよう命じました。この後、桓譚は給事中の官を解かれました。

徳を基準に人材を登用した宋弘は、馮翊(ふうよく)や桓梁(かんりょう)ら三十余人の賢士を次々と推挙しました。その中には後に宰相や公卿に昇った者もおり、光武帝の政務運営を大いに支えました。

ある日、光武帝は臣下たちを招いて宴を開きました。御座の後ろには、美女が描かれた新しい屏風が置かれていました。宴の席で、宋弘は光武帝が何度も振り返ってその屏風を見ているのに気づき、厳格な表情で諫言しました。

「色を好むのと同程度に、徳を好むような人物に会えたことがありません」

光武帝はすぐに屏風を撤去させ、笑って宋弘に言いました。「私は義にかなう諫言を聞けば、すなわち従う。これでよろしいだろうか?」

宋弘は「陛下は徳を積んでおられる。臣下にとってこれ以上の喜びがありましょうか」と答えました。

 

「糟糠の妻は堂より下さず」

その頃、光武帝の姉である湖陽公主が夫に先立たれて寡婦になった。湖陽公主は日々憂鬱な日々を送っていました。光武帝は姉の再婚を望み、機会を見て朝臣たちと議論し、彼女の意向を探りました。

宋弘の話題になると、湖陽公主はこう言いました。「宋公の容貌と徳行は、群臣の中でも際立っています」

宋弘には長年連れ添った妻がおり、光武帝は成就し難しい縁談だと考えましたが、宋弘本人の意思を確かめてみることにしました。

そこで光武帝は宋弘を召し出し、湖陽公主を屏風の後ろに座らせました。光武帝は宋弘に問いかけます。「諺に『貴くなれば友を替え、富めば妻を替える』とあるが、これは人の常情なのか」。すなわち、「人は官位を得れば友を替え、富を得れば妻を替えるのが普通のことなのでしょうか?」という意味です。

宋弘は真剣な表情で答えました。「臣はこう聞いております。『貧賤の交はりは忘るべからず。糟糠の妻は堂より下さず(貧しい時代の友を忘れず、苦楽を共にした妻を棄てない)』という諺の通りだと思います」

光武帝は屏風の後ろにいる湖陽公主を振り返り、しばし考えた後に「これは見込みがないな」ともの惜しげに言いました。

この逸話が、後世に伝わる「糟糠の妻は堂より下さず」や「糟糠の妻」の由来となりました。

宋弘の行動は、夫婦間における「恩愛」がなぜ「恩」を先に、そして「愛」が後に置かれるのかを示しています。仏教では、夫婦の縁は前世のさまざまな因縁によって結ばれ、その中には恩情が含まれると考えられています。そのため、婚姻関係において「恩」は「愛」よりも大きな意味を持つとされます。

愛情だけに頼っては、夫婦の関係をしっかり保つことは難しいものです。両者の恩情を真に重んじ、互いに敬い合う「相敬し賓の如し(夫婦が互いに賓客のように尊敬しあう)」を実践してこそ、家庭生活は円満で幸福になります。これは、愛情だけを重視し、恩義や責任を軽視しがちな現代人の価値観とは、全く異なるものです。

参考資料:《後漢書》

(翻訳編集 日比野真吾)

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