【漢詩の楽しみ】 鹿柴(ろくさい)

【大紀元日本12月23日】

空山不見人
但聞人語響
返景入深林
復照青苔上

空山(くうざん)人を見ず。但だ、人語(じんご)の響きを聞く。返景(へんけい)深林に入り、復(ま)た照らす青苔(せいたい)の上。

詩に云う。人の気配がない山に、人の姿は見えない。ただ、人の言葉の響きが聞こえてくる。やがて夕日が深い林のなかに射し込んで、青い苔の上を照らした。

作者は盛唐の王維(おうい、699~759)。李白や杜甫とほぼ同じ時代を生きた詩人である。

王維が李杜と大きく異なるのは、官界での栄達を遂げ、しかも政難に遭わない幸運を得たうえ、私邸である広大な山荘で友人と交わり、悠々自適の時間を過ごすという、中国の文人として理想的な生涯を送ったことであろう。

それでも、晩年の755年に起きた安禄山の乱では、賊軍につかまり、無理やり協力させられてしまう。そのことが乱の鎮定後に問題となったが、幸い官職を少し下げられただけで済んだ。先述の「幸運」には、その意味もある。

題名の「鹿柴」は、王維の山荘・輞川荘(もうせんそう)にちなんでつけられたもので、輞川二十景の一つである。

漢文科の学生だったころ、この日本でもよく知られた詩が、ひどく難解に感じられた。「人の気配がない山」に人の声が聞こえるのは意味上の矛盾ではないか、と思われたからだ。

今になって、ようやく自分を納得させられる答えを得たように思う。

「空山」は、作者を包む広大無限の空間のこと。あるいは宇宙といってもよい。それに対して、人語の響きが聞こえる「但聞人語響」は、もっと作者に近い事象なのだ。つまり第一句と第二句では、作者の意識の及ぶ範囲が異なるのである。

多くの参考書はこの部分について、「山が静かだから(姿が見えない遠くの人の)声が聞こえる」という、静寂さの強調表現だけで説明している。

これだけでは、どうも足りない。そこを自分で考えるところに漢詩の楽しみの一つがある 

(聡)