THE EPOCH TIMES

「文化大革命」を生き抜いた米国人孤児の実話(下)

2010年11月02日 15時25分
 【大紀元日本11月2日】1960年代から70年代にかけて10年間続いた文化大革命の嵐。それは中国の全国民を巻き込んだ粛清運動だった。迫害に耐え切れず自ら命を絶ったり、拷問により命を失った知識人は数百万人から一千万人以上とも言われている。深遠な中華民族の伝統文化もこの時期にことごとく破壊された。そんな狂気の年月を生き抜いた一人の米国人孤児がいた。海外中国語誌「新紀元週刊」は、彼女が遭遇した様々な出来事に焦点を当てた。本サイトでは2回に分けて紹介する。今日はその2回目。

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 米国への帰国を決心する

 1971年7月、当時の中国ではとても珍しいボーイング707型機が新疆の上空を通過した。西から東に向かうこの飛行機には、当時の米国家安全保障問題担当の大統領補佐官で国務長官のキッシンジャー氏が乗っており、中国との外交関係の回復策を思案していた。自分が乗る飛行機の1万メートル下の地上で、一人の米国人孤児が苦しんでいるのを、長官は知るすべもなかった。

 中学に入学してから、韓秀は祖母から、自分はニューヨークで生まれた米国人であることを知らされた。出生証明書とパスポート、そして、一枚の小さな父の写真も
韓秀は父親のウィリー・ハンエンさんと一度も対面したことがない。これは彼女が持っている父親の唯一の写真(韓秀さん提供)

渡された。そのときから、彼女は祖国米国のことを知るあらゆるチャンスを見逃さなかった。祖母の家柄からか、出入りする人たちといえば、もっぱら文芸界や知識階級の有名人で、米国に留学し50年代に帰国した学者も多く含まれていた。彼女は彼らから、欧米の文化を徐々に理解し、大量の中国人科学者を育てた米国という国のことをある程度知ることができた。新疆ウイグル自治区での困難で苦しい生活の中、彼女は放送職員としての仕事上の立場を利用し、米VOA(注、米国政府が運営する唯一の国営ラジオ放送局。その中国語放送は中国政府に遮断され、受信が禁止されていた。そして違反者には厳罰が下された)をこっそり受信していた。それにより、うっすらと感じていた「アメリカに帰る」という考えが次第に現実味を帯びてきた。

 1974年から、各地に飛ばされていた若者たちが続々と都会に戻り始めた。1976年のある日、_deng_小平の執務室から一枚の便箋が届き、「この人は新疆に留まるべきではない」と書いてあった。この紙切れは韓秀の運命を再び変えることになった。彼女はすぐに北京行きの列車に乗った。当時の彼女はことの経緯については全く知らず、ただ、米中関係が回復し始め、状況がすこし改善されたのだということしか分からなかった。

 北京に戻った彼女は工場に配属された。これもまた、彼女が中国の工場労働者を知るチャンスとなった。彼らは善良だった。しかし、社会の底辺で生きており、給与がとても低いうえ、家庭の負担が重く、居住条件も悪かった。出勤した初日の夜、唐山大地震が起きた。韓秀の自宅は大丈夫だったが、同僚の家は皆倒壊した。彼女は、同僚たちが後片付けできるよう、黙々と同僚のかわりに残業をした。

 党書記は彼女の行動に感動し、何か要求はないかと尋ねてきた。彼女は、文化大革命のときに家宅捜査で押収された出生証明書と米国のパスポートを取り戻したいと話した。党書記はすぐに北京市公安局に打診して、十年も金庫に眠っていたこれらのものを彼女に返してくれた。

 続いて、彼女は北京市公安局の外事部を訪れ、自分が米国国民であるという身元を確認し、帰国を要求した。それを聞いた外事部の人の顔色が真っ青になった。1956年に行われたワルシャワ交渉では、中国政府は、「中国国内に留まった米国人は皆、自らの意思で残留を決めた」と再三に渡り強調した経緯がある。今になって、米国への帰国を言い出したのでは、政府の嘘がばれてしまうではないか。何日かして、公安局のトップの回答が下りてきた。「米国政府であろうが、中国政府であろうが、あなたの資料は期限が過ぎて無効になったと認識している」との結論だった。

 せっかく自分の出生証明書と米国パスポートを取り戻した彼女は諦め切れなかった。アメリカに対する彼女のこれまでの認識では、この国は非常に人権を尊重し、戦死した自国兵士の遺体すら必ず取り戻すのに、ましてや、彼女のような生きている人間はなおさらであろう。そう思った彼女は自転車に乗って、北京市の建国門外にある外国公館の所在地に向かった。当時、米中両国はまだ正式に国交を結んでおらず、ニクソン大統領の訪中後、連絡処を設立しただけだった。そこで、彼女はそこを訪問しようと決めた。

 日壇公園の西南の角に、冬の冷たい風になびく星条旗が彼女の目に映った。周囲には武装警官も見え、各国の大使館もあった。彼女はそのまま家に戻り、「行動計画」を練り始めた。

 突入:「私は米国人です」

 1977年2月21日、彼女には忘れることができない日である。当時流行っていたラッパズボンとジャケットを身にまとい、長い髪を整えて、友誼商店の西門にやってきた。自転車を止めた韓秀は、散歩人を装って近くの米国連絡処に向かった。そのすぐ前で足を止め、米国連絡処の向かい側にあるアフリカの某国大使館に向かった。警備にあたる武装警官は彼女をみて微笑んだ。どこかの国の大使館秘書が道に迷ったと思ったのであろう。その時だ、彼女は突然振り返って、向かい側の米国連絡処に走った。

 彼女の足が米国の国土を意味する白線を踏んだ瞬間、一人の武装警官が銃を持って彼女に飛びかかった。「何をするんだ。早く出なさい」と威嚇した。

 「私はアメリカ人です」。米国パスポートと出生証明書を手に握った彼女は恐怖のあまり体が固まってしまった。「パスポートの有効期限が切れたので、延期あるいは新しいパスポートを申請しに来ました」と彼女は言った。

 「あなたは絶対にアメリカ人ではない」。武装警官は嘲笑うかのように微かに笑った。「アメリカ人なら誰もが知っているはず。今日は祝日で、誰も出勤していない」。

 韓秀の心は一瞬にして凍りついた。命の危険を犯してまで突入しようとしたのに、祝日だなんてあんまりだ。なんでこんなにも自分は不運なのだ。彼女は呆然と立ち尽くし、どうすればいいかと考え始めたそのときだった。一台の車が突然現れ、ジャージ姿の米国人青年が降りてきた。彼は一目で韓秀が握っていた緑色の1940年代の米国のパスポートに気づき、「これはあなたのパスポートですか」と走ってきた。

 「はい、そうです」

 「私にそれを見せていただけますか?」

 「もちろんです」

 「絶対にこの白い線から離れないでください。私はすぐ人を呼んできます」。後にわかったことだが、彼は米国連絡処の職員フランクリン・ワードローだった。韓秀の資料を手にした彼は、叫びながら連絡処の建物に入った。まもなく、一人の年長の米国領事とワードローが一緒に出てきた。彼はジェローム・オグデン領事で、祝日のこの日も、主要な責任者数人が出勤していた。

 ワードローとオグデン領事はその場で彼女の出生証明書とパスポートを確認し、武装警官に対し、彼女を入館させるよう要求した。「彼女は確かにアメリカ人だ。手続きするために来ている」。武装警官は電話で自分の上司を呼んできた。韓秀のすべての書類を確認したこの上司は最後に、「米中両国の上海聨合公報に従って、我々は米国人が米国連絡処に入ることに反対しない」と言った。

 ワードローとオグデン領事はその言葉を聞いて喜んだ。「我々は彼女をアメリカ人だと認識している」

 その上司は「どうぞ」という合図をした。このようにして、韓秀は米国連絡処に「招かれた」。

 ゲイツ主任、丁大衛(英語名不明)副主任などの主要な責任者たちが皆そこにいた。オグデン領事は米国の国務省に電話し、国務省はまたニューヨークに連絡した。韓秀のパスポート番号と出生証明書を頼りに、5分以内で、彼女の米国国民の身元が確認できた。しかし、これはほんの第一歩に過ぎなかった。オグデン領事の話では、彼女はまず新しいパスポートを申請しなければならなかった。それはすでに有効期限が過ぎていたためだった。賢い韓秀はすでに数枚の証明写真を用意して持ってきていた。しかし、ここは連絡処であり、パスポートの発行業務は行われていない。彼女は1ヶ月後に新しいパスポートを取りに来なければならなかった。丁大衛もはっきりとわかっていた、今日の騒ぎがあったため、ここから出れば、韓秀の運命がどうなるかは、だれも予測できなかったのだ。所有物がすべて押収されてしまう可能性もあるので、彼は韓秀に5つの連絡用の電話番号を教え暗記させた。それは自分のオフィスの番号を含む米国連絡処の5人の領事の電話番号だった。

 30分後に、韓秀は連絡処を後にした。

 
1977年、韓秀は2度にわたり厳密な監視をくぐって、米国連絡処に入り米国人の身元の確認とパスポートの申請を行った。写真は今の駐北京米国大使館(AFP)

再び米国連絡処に突入


 自宅に戻ったが、意外にも何事も起こらなかった。しかし、パスポート取得の日が近づいたある日、数人の公安警察が工場に現れた。「勝手に米国連絡処に突入した」過ちを犯したと警告、2つの禁止事項を宣告した。「第一、米国連絡処への立ち入り禁止と、米国連絡処の関係者とのいかなる連絡を禁ずる。第二、たとえ街で彼らと出くわしても、いかなる方法でも接してはならない」。違反した場合は厳しく罰するという。それから、毎日、一人の警官が工場内で彼女を見張るようになった。彼女よりも早く工場に現れ、毎日彼女を自宅まで「護送」した。

 1ヶ月が過ぎた。その日の朝、出かける前から一人の警官が自宅前に張り込んでいた。家を出て、東単から建国門までの沿道には、たくさんの警官が配置され、女性警官も多くいた。韓秀は心の中で嘆いた。自分のようなか弱い女性に、公安局は大敵に挑む体制を組んだのだ。もちろん、彼女は自ら罠にひっかかることはしないが、しかし、次はどうすればいいのだろうか。

 予定していたパスポートの受取日が過ぎてしまった。韓秀は様々な隙をみつけて、公衆電話で心に刻み込んだ5つの番号に電話をかけ続けた。しかし、いつまでもつながらなかった。なんと、北京市内の電話は各国の在外公館とは別の回線システムであるため、つながるはずがないのだ。彼女は堪えて待つしかなかった。

 ある日、祖母から買い物を頼まれた彼女は、長い列に並んで待っていたとき、ふと店内の厨房の壁に掛けてある古い分離式電話機が目に入った。彼女は、「もしかして」と思い、店主に電話を貸してほしいと頼み込んだ。「代金は4分」と電話当番のおばあちゃんの大きな声が響いた。彼女は一点の迷いもなくお金を渡した。受話器を手に取り、電話番号をダイヤル、「トゥートゥー」、つながった!電話がつながったのだ。受話器の向こうはオグデン領事の声だった。「あなたのパスポートはすでにでき上がっています」

 「私は明日朝8時に、米国連絡処付近に行きます」と彼女は急いで伝えた。

 翌日早朝4時に起きた韓秀は、普段着姿で密雲県行きの列車に乗った。密雲県に到着後、日潭病院行きの長距離バスに乗り換えた。尾行する警官から逃れるための作戦だった。

 日潭病院に到着してから、彼女は患者さんの群れに混じって病院内を一回りして、4つの方角に皆銃を持つ武装警官が警備しているのを確認した。米国連絡処は50メートル先にある。

 彼女は人ごみに混じって病院を出た。道路を横断し、最初の武装警官を通りすごして2人目に向かうとき、遠くにオグデン領事の姿が見えた。手には彼女のパスポートを持っていた。彼女を発見した領事は足早に駆けつけてきた。

 「彼女はパスポートを取りに来たのだ。それはここにある」と領事はパスポートを指して武装警官に告げた。

 その隙に韓秀が駆け足で米国連絡処に入った。

 「私たちは朝から監視カメラから目を離さなかった。あなたが現れたら、すぐに出迎えに行くつもりだった」と領事は得意げに話した。彼女はもう一度、神様に助けられたのだ。

 「早く署名してください。署名してはじめてこのパスポートが有効になる」。韓秀は自分の名前を書き込んだ。

 「よし、今あなたは合法なパスポートを持つ米国国民になった。我々は全力を尽くして、あなたの帰国を実現させるつもりだ」。このときのオグデン領事は不安げな表情をみせていた。これから待ち構えているのは、さらに前途多難な帰国の旅であることを、韓秀はそのとき知る由もなかった。

 絶対に妥協しない

 工場に戻った彼女は何事もなかったようにしていた。夜家に戻り、新しいパスポートと出生証明書を枕の下に置いた。夜半、窓際に人影が映り、屋上にも何者かが歩いている音がした。緊迫する中、韓秀は出生証明書を下着に隠した。

 警官が突入してきた。彼女を逮捕すると告げ、乗用車に押し込んだ。3時間にわたって取り調べが続いたが、彼女の機敏かつ固い態度で、何も証言が得られなかった。韓秀は釈放されたが、パスポートと出生証明書は再び強制押収されることになった。

 それから8ヶ月間、彼女は智慧と強い精神力で、度重なる当局の取り調べに臨んだ。担当する者の官位もどんどん上がっていた。彼女は決心した。相手に絶対にいかなる口実も与えない、と。彼らが事を大きくしたいのであれば、彼女はできるだけ事を小さくする。彼女の雄弁に返す言葉を失い、相手が萎えてしまうのは毎回のことだった。

 同時に、オグデン領事も毎週、中国外交部を訪れ、韓秀の米国帰国を要求し続けたが、中共幹部に罵倒されるのが常だった。オグデン領事は当時を振り返り、自分たちは最悪の状況を想定していたと明かした。韓秀については、「生きているならば会わせろ。死んでいるならば遺体をみせろ」と当局に宣告したという。

 1977年夏、当時の米国ヴァンス 国務長官が訪中し、米中両国の外交関係の締結が議題となった。中国に留められていた米国人について、両国政府は入り組んだ交渉を行った。その結果、「私はケーキのようにプレゼントとしてアメリカに渡された」と韓秀はユーモラスに語った。

 彼女はようやく「親族訪問のための帰国」が許された。つまり、中国パスポートで中国を離れて米国に帰国するのだ。中国を離れることさえできれば、米国政府はどのパスポートを使うかはまったく気にしない。米国入国審査の際に米国パスポートを提示すれば済むことなのだ。

 彼女は無事に香港に到着した。そして、駐香港の米国領事・葛睿毅(英語名不明)の助けを得て、同日、ノースウェスト航空でシアトルに行き、そこでワシントン行きの飛行機に乗り換えた。

 「私は優れた記憶の持ち主だ」

 韓秀が出国するとき、火花を散らす小さな出来事があった。 

 1978年1月、当局はすでに彼女を帰すことを決めていたが、北京から広州までの列車代しか負担しないという。結局、香港からアメリカまでの費用はアメリカ側が負担することになった。中国の公安局で最後の出国手続きを行うとき、ある幹部が彼女に列車代として130元を手渡した。

 「この金は中国政府があなたにくれたもの。受け取ったら、米国政府から追究されることを恐れないのか」と彼は嫌味を交えて話をした。

 その言葉に韓秀の怒りが爆発した。30年間積もりに積もった怒りがついに一気に爆発したのだ。「私は中国に28年間住んでいた。未成年のときから重労働を強いられて、13年間も働き続けた。この130元はあまりにも少な過ぎる。後ろめたい気持ちなんて微塵もありはしない」

 「もういい。すべての恩義と仇を一笑に付して、不愉快なことを全部忘れよう」。

 「そう簡単にはいかない。私は優れた記憶の持ち主だから」

 「24時間以内に北京から発ちなさい」。相手はヒステリックに怒った。

 「それはまったく問題ない。私はすぐに発ちます!」

 「あなたの祖母がまだ北京にいることを忘れないように!」

 「祖母のことなんかまったく心配していない。彼女は最も死を恐れない人間だから」

 相手は返す言葉を無くした。

 羅湖口岸を経由して香港に到着して間もなく、彼女はすぐに駐香港の米国大使館の葛睿毅・領事と対面でき、ノースウェスト航空のカウンターに連れて行かれた。領事は450ドルを出して、ワシントン行きの航空券を購入してくれたのだ。

 領事は係員に「You must bring her home today.」(今日中に、彼女を家に送り届けてください)と話した。

 申し訳なく感じた韓秀は、「米国政府はなぜここまで親切に、こんな大金を出して私を助けるのですか?」と聞いた。

 「これはあなたが借りた金です。将来米国政府に返してもいい。でもあまり気にしなくてもいい。とにかく早く国に帰りましょう。それが何よりも重要なのだ」と領事が答えた。

 英語を話せない彼女を案じて、領事はあらかじめ作成した5通の手紙を彼女に持たせた。一通はノースウェスト航空の客室乗務員宛て、一通は機長宛て、一通は入国審査の職員宛て、一通はワシントン到着後のタクシー運転手宛て、最後の一通は万が一、突発的な事故が起きた時のために警官に宛てたものだった。これらの手紙は、彼女が英語を話せないため良く面倒をみるようにという「お願い」の内容だった。

 「長い期間の中で、私は中共の本性をすでに深く認識できた。そして、この出国前後の非常に短い期間に、人権を大切にする米国という国もはっきりと知ることができた」。丁大衛さんや、オグデンさん、葛睿毅さんなど、これらの米国領事の言動から、米国政府が在外邦人を重視し配慮する行いを、彼女は実際に感じることができたという。

 予期せぬ再会

 彼女はようやく米国の地を踏むことができた。多くの苦難を耐え忍んできた孤児を、祖国は両手を広げて快く胸に抱きしめてくれた。持っていた数通の手紙を頼りに、彼女は無事に米国国務省の中国課にたどりついた。彼らは流暢な中国語で対応し、「これからは、あなたは何も心配しなくてもいいのです」と言ってくれた。

 確かにそうだった。出会ったすべての人々は一生懸命に彼女を助けようとした。国務省の手配で彼女は学校で英語を習い始め、アーリントン州政府は3ヶ月間の生活費を支給してくれた。まもなく、彼女は国務省直轄の外交学院に中国語の教師として推薦された。国務省の幹部はわざわざ同外交学院の学長に電話し、必ず韓秀を採用するようお願いしたという。

 学長はこのことに対して少し不愉快に思った。今まで「必ず採用してください」などという「命令」などなかったからだ。彼はこの特別扱いの中国語教師を自ら面接すると言って譲らなかった。

 この日の朝、身だしなみを整えた韓秀は、約束の時間通りに学長のオフィスを訪れた。マスターしたばかりの英語で、「Good morning, Mr.Sweft.」とあいさつした。

 学長は金縁のメガネをかけており、白いスーツに銀色のネクタイ、白髪の学者の風貌だった。顔を上げて韓秀に目をやった学長は、突然、メガネを外した。目から涙が溢れ出ていた。韓秀はびっくりした。自分の英語があまりにもひどいため、このお年寄りを怒らせてしまったのではないかと思った。

 次の言葉に韓秀はさらに驚いた。「あなたは私を知らないが、私はあなたを知っている」

 「私と妻と息子のジョンがあなたを連れて中国に行ったのだよ」と感極まった学長が言った。「あなただったのですか」と韓秀の目からも涙がこぼれ出た。

 人生とはこんなにも不思議なものなのだ。30年の歳月が過ぎたが、すべてがまた原点に戻ったようだった。2人は米国で再会を果たしたのだ。学長は言った。当時、自分は夫人と相談して決めていた、もし、韓秀の祖母が迎えに来なかったら、彼女を養女にしようと思っていた、と。

 「あなたはようやく戻ってきた!もちろん、私は必ずあなたを採用する」と学長は興奮気味に話した。

 命の宿

 1982年春、韓秀は教え子の米国人外交官と結婚した。その後、彼女は夫に伴って台北で1年間、北京で3年間、そして台湾南部の高雄市で3年間滞在した。ギリシャなどにも派遣された。夫と北京に滞在し祖母と再会を果たした韓秀は、懸命に祖母の世話をした。1986年夏、韓秀と夫が米国に帰国する直前に、彼女に多くの愛を注いでくれた祖母が静かにこの世を去った。

 1982年から、韓秀は本を書き始め、自伝小説『折射(屈折)』を発表した。それ以来、彼女の創作活動の勢いは止まるところを知らず、いまでは中国国外の著名な中国語作家となった。出版した著書は29冊、複数のコラムを持ち、無数の文章を発表してきた。夫婦はいまワシントンDC付近の町に住んでおり、アーリントン国立墓地に程近いところだという。そこには、一度も対面できなかった父親が眠っている。

(翻訳編集・叶子)


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