【チャイナ川柳】四川柳 5月の選評作品

【大紀元日本5月31日】


平安仏教
平成仏葬

【一柳斎評】

仏教は貴賎の富貴を問わず、しかして風紀を糾し衆生の安楽往生を叶えようとするものである。そして願わくば凡百の迷える常人を、間違いなく平安の世界へと導くのが眼目だった。だから「平安仏教」と呼ばれる一時代が画された。

平安時代(794~1185)は、約390年の永きにわたった。この年数をもって安寧の指標とすることもできようが、「平」のつく元号には不穏の印が宿っているとする見解もある。平安中垣xun_ネ降には末法思想が広く受け入れられて、浄土へダイレクトに念仏三昧で極楽往生できる阿弥陀信仰がもてはやされた。さすれば平安時代は仏の信仰の中に、不安を鏡のように映す時代でもあったのだろう。空海や最澄の活躍によって唐からもたらされた山岳仏教の新たな隆盛は、かろうじて平安仏教というネーミングに値するものではあった。

一方、平成時代は・・・内外・天地が平らかに成りますようにという、平和の願いが込められた「平成」の元号通りに時代が踊っているかといえば、そうではない。物証に基づく人の裁きやマニュアル物教が大手を振るって君臨している時代を、たじろぎもせずに目下驀進中なのである。器械や物質のオートマチズムに人間の信頼をお任せする便利な物質文明に、誰もが加担してしまわざるを得ない仕儀となっている。

ジェットコースターやエレベーターや公園遊具による不慮の事故は、点検マニュアルの教えが死物化している現代版・物のあわれの縮図といえるだろう。仏葬が執行されて仏僧の尊い教えは、埃を払うように埋葬されてしまった。平成は仏が葬り去られた、物騒至極な世の中になったのである。

仏=物交換する事ができないまでも、平成が平安になる時代の兆候がいずこにあるか、誰か手にとってそこにあると教えてはくれないだろうか?物質文明の将来は果たして期待通り、人工の素敵なイルミネーション光を放つ、それは気が付けば喩えようもなく美しい誘蛾灯のような代物であるのかもしれない。仏がぶつ、ぶつ、つぶやいて、その後にやってきた物がぶつ、ぶつ、つぶやいて、仏と物とが出会い頭にぶつかった。それでどうしたって? 綺麗さっぱり元の木阿弥・陀ぶつ(仏=物)となってしまったのさ。

(一柳斎卍)