著者の父(写真・著者提供)

≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(5)

私たちが中国へ旅立つ前、父は祖母の家へ行って、中国行きについて相談しました。祖母は、父が家族全員を連れて行くことに反対でした。父は祖母にとって一人息子で、その上祖父が早くに亡くなったため、祖母は随分苦労しながら一人で父を育てました。それなのに、今父は日本を遠く離れ、見知らぬ国へ行こうとしています。祖母はどうして安心できるでしょうか?

 その上、私と姉はそのときすでに東京で小学校に上がっており、私は2年生で、姉は4年生でした。祖母は、父たちが行こうとしているところがどんなところなのか知りませんし、そこの条件がどうなのか、将来子供たちが学校に通うようになったとき、そこに適当な学校があるのかどうかもわかりませんでした。もし、行ったところが想像と全く違っていたら、後悔しても間に合わない、そうなったら、五人の子供を含め家族はどうするのか、と心配しました。

 しかし、父はやはり政府の呼びかけを信じました。当時の日本人にとって、中国へ行くというのは、今の日本人がヨーロッパへ行きたがるのと同じように、大きな憧れでした。ひょっとしたら、多くの若者が、自分たちが行くところはどこも上海のような大都市だと考えていたのかもしれません。それに、当時の政府が大々的に若者たちに、中国は自分の才能を思いっきり発揮できる広いところで、またとないチャンスなので、中国へ行こう、と呼びかけていたのです。……結局、父は、友人の新井さんたちと一緒に、「長嶺八丈開拓団」に入りました。

 父はもちろん、祖母が一人で日本に残れば寂しいだろうし、そばに面倒を見る人がいないのも心配なので、園子お姉さんを祖母のそばに残すことにしました。結局、私と弟たちが両親と一緒に中国に行くことになったのです。この決定によってその後、私と姉が遠く離れ離れになり、それぞれ全く異なった路を歩むことになるとは、当時は夢にも思いませんでした。

 当時私は、本当に祖母と姉のそばを離れたくありませんでした。幼いときからずっといつも姉と一緒にいたので、姉も行くのならもちろん問題ありませんが、今、姉は祖母のそばに残り、中国へは行かないことになったのです。それなら、私ももちろん日本に残って、両親と中国へ行きたくはありません。当時私は、祖母がお供えしている仏様に、「どうぞ、私を父と一緒に中国へ行かせないでください。お願いします。姉と一緒に祖母のそばにいさせてください」とお祈りしました。数十年経った今でも、このことは、昨日のことのようにはっきりと覚えています。私が両手を合わせて心から仏様にお祈りしたのは、それが初めてでした。

 母が船の中で話してくれた物語は、正に私の運命を描いていました。神様はすでに私の進むべき路を用意しており、母の口を通して私に語ってくれていたのです。それなのに、私は、神様の心遣いと哀れみを少しも察することができず、海で嵐に遭った際、もう少しで園子姉さんのことを忘れてしまうところでした。幸い、今日朝鮮の春の鮮やかで美しい異国情緒を目にして、思わず東京にいる姉を思い出すことができ、園子姉さんが私たちと一緒に来られなかったことを本当に残念に思ったのです。

 父はさらに、私と一と輝を、キャンディや果物を買いに連れて行ってくれました。私たちは父と一緒に見て回るのがうれしくて、途中ずっと珍しそうに父にあれこれ尋ねました。でも、父も外国へ出るのは初めてだったので、知らないこともありました。私が「これから行く中国はここよりももっと大きくてもっといいんでしょう?」と聞くと、父は躊躇することなくきっぱりと、「もちろんさ。朝鮮よりも大きいしすばらしいぞ」と答えてくれました。それを聞くと、私はうれしくて、すぐにでも中国へ飛んで行きたくなりました。

(つづく)

 

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私たちが父と一緒に船に戻ったとき、母はもう弟の力を寝かしつけ、みんなの布団を敷いてくれていました。しかし、私はもう全く眠くありませんでした。おそらく、ここ数日間、荒波の船上で
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第二章 裏切られた期待と開拓団での生活  私たちがバスから降りたとき、目に飛び込んできたのは、一面の荒れ果てた山と野原でした。3月の黒龍江省はまだとても寒く、地面もまだ凍っていました。大地は一面枯れた雑草に覆われ、山にも緑は全くなく、麓に新築のレンガの平屋が幾棟か並んでいるだけでした。
大人の人にとって「何とかして生きていく」ということが何を意味しているのか、8歳の私には分かりませんでしたが、私たちが中国の辺鄙な田舎に来ていることは確かでした。そして、「何とかして生きていく」という父の慰めのことばが、その後自分が一人で向き合わなければならない運命になるとは思いもしませんでした。
それからしばらく経って学校が始まり、私は毎日小道を通って山の麓にある学校に通うようになりました。 
私は次第にそこの生活に慣れました。入学して間もないある日のお昼、食事(昼ごはんは学校が先生と生徒のためにまとめて作ってくれる)が終わってグランドで縄跳び遊びをしていると、突然深緑色のトラックがやってきました。軍人のような若い人が何人か降りてきて、車から荷物を下ろし、総務室に運び始めました。多くの先生方も手伝っていました。
開拓団にきてから、自分がだいぶ成長し、多くの事を知るようになったと感じました。そして、両親がとても大変で辛抱していることも理解でき、心から母の手伝いをしたいと思い始めました。
私たち一家6人の開拓団での生活は、とても簡素で非常に短いものでしたが、私の生涯において非常に特別な意味を持っていました。
この時、乗客の皆は船を降りて上陸する準備をしていましたが、母は私が見当たらないのに気が付くと、あわてて至る所を探しました。母が呼んでいるのを聞きつけて、私はすぐさまそっちのほうを見ました。すると、母は一番年下の三番目の弟「力」を背負い、父は左手に一番上の弟「一」を、右手に二番目の弟「輝」を引いていました。