≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(17)「苦難の逃避行」

私は左右の手で一人ずつ弟の手を引き、3人で横になって山を一気に下りて行きました。そこにはすでに何人か大隊の人が私たちを待っていました。後ろを振り返ってみると、隊列は今朝ほどにはかたまっておらず、人がバラバラと下りて来ており、まだ山の上まで来ていない人もいるようでした。

 石原おばさんは母の背中から弟を下ろすのを手伝ってくれ、母にそこでしばらく休むように言いました。先にそこに着いていた年配のおじさんたちが、向こうの岩の隙間から流れ出ている水は飲めると教えてくれました。そこで、おばさんはお礼を言うと、すぐに私たちの2つの水筒と自分の水筒を持って水を汲みに行きました。母は申し訳なさそうにおばさんにお礼を言うと、私に一緒に手伝いに行くよう目で合図しました。私は喜んでおばさんと一緒に、岩の隙間のところまで水を汲みに行きました。おばさんは水を少し汲むと、まず私に飲ませてくれました。私は喉が渇いてしかたなかったので、「おばさん、ありがとう」と言うと、ゴクゴクと飲みました。水はとても冷たくて美味しく感じました。おばさんはそれは泉から湧き出た水だと教えてくれました。

 私とおばさんが水を汲んで帰ると、母はまず2人の弟に飲ませてから、食べ物とお新香で腹ごしらえをさせてくれました。しばらくしたらまた路を急がなければならなかったのです。おばさんが言うには、今日中になんとしても「義勇隊キャンプ」に辿り着かなければならならないそうです。私は母に小声で「あとどれくらい?いつ目的地に着くの?」と聞きましたが、母は知らないし、おばさんたちも着く時間ははっきり分からないようでした。ただ、どうもまだ半分も歩いていないようで、目的地に着くのは、おそらく夜中になるだろうということでした。

 私たちは朝食とは言いがたい朝食を終えました。次から次に人が到着し、何人かはまだ山腹あたりにいます。母は、私と弟たちに足を伸ばして休んでおくよう言いました。全員が揃って、少し腹ごしらえしたらまた出かけるのだそうです。そこで私は、弟たちを連れて山の麓にある小さな坂まで行くと、仰向けになりました。母は私たちに、皆と一緒に歩くとき、決して隊列から落後してはいけない、疲れても我慢し、耐えなければならない、一旦落後してしまうと、ますます引き離され、皆に追いつけなくなる、と言いました。そしてはっきりとした口調で私たちに、「我慢して頑張れる?」と聞きました。弟たちはきちんと座りなおすとこくりと頷きました。母はそれでようやく安心したようで、笑顔を見せました。

 私たちは朝食を食べてしばらく休んだので、少し疲れが取れました。おばさんはまた、私たちの水筒に水をいっぱい汲んでくれ、私と上の弟がそれを一つずつ背負いました。私はさらにリュックを背負いましたが、さっきより随分軽くなっていました。私が背負ったリュックの中身は食べ物だったので、今はずいぶん軽くなったのです。私はこれで落後しない自信がつきました。ちょうどそのとき、全員の準備ができたので、また出発することになりました。

 八月初旬で晴れていたので、少し暑かったのですが、雨よりはましでした。私たちは山道に沿ってまた一つ山を登りました。その山道は狭くて長く、トラックの通った跡もありませんでした。あたりはとても静かで、大きな木々に覆われている以外、何も見えませんでした。林の中を歩いたので、昼間にもかかわらずあまり蒸し暑く感じませんでした。ただ、ずっと上り道だったので、みんな息が荒くなり始め、少し歩いては足を止め、腰を伸ばすようになりました。母は私たちに、急がずゆっくり坂を上ればいい、歩くのを止めさえしなければ皆に追いつく、と言いました。前を歩くおばさんは時々振り返って、「頑張って!」と励ましてくれました。でも、弟の輝は眉間にしわを寄せ始め、疲れて泣き出しそうになりました。母は「もうすぐよ。頑張って前へ歩くのよ」と励ましました。しかし、本当は、私たちはもう歩けないほどに疲れ果てていたのです。

昼が過ぎて、人の影が東北の方向を射しました

 

昼が過ぎて、人の影が東北の方向を射しました。(母の畑仕事を手伝っているとき、農業部長が、太陽の影でお昼か午後かを判断できると教えてくれました。)私は、どうしてまだ休みを取らないのだろうと思いました。私は少し休みたいと思いながらも、落後したくなかったので歩き続けましたが、スピードが遅くなってきました。

 少し経ってから、後ろのほうから「その場でしばらく休憩!」という声が聞こえました。私は弟たちと道端に座り込み、二度と動きたくありませんでした。母は食べ物を取り出して食べさせてくれ、水も飲ませてくれました。食べれば元気が出るというのです。おばさんは母に、今晩目的地に着けば食べるものがあるから、持って来た食べ物をできるだけ全部食べたたほうがいい、そうすれば荷物が軽くなる、と言いました。母はそれで安心して、まだたくさん歩かなければならないからと言って、私たちにお腹いっぱい食べさせてくれました。

 私たちは腹ごしらえを済ませると、再び出発しました。そのときはすでにお昼を過ぎていました。隊列を率いる人が後ろからやってきて、目的地までまだしばらくあるが、暗くなっても何としてもキャンプに辿り着かなければならないので、皆頑張るようにと、声をかけました。

 大人たちは子供たちに「頑張れ!」と励まし、年配のおじいさんたちは木の枝を拾って、杖にしていました。私は母にぴったりくっ付いて歩き、決して休むことはありませんでした。その日は幸い、雨や風がなかったので、順調に前へ進むことができました。午後は涼しい風も吹き、爽やかに感じました。

(つづく)

 

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そのとき、母は私の頭を軽くなでました。出発するので、お母さんの服をしっかりつかんでおくようにということでした。私は母にぴったりくっついて歩きました。不思議なことに、一旦歩き出すと何も怖くなくなり、落ち着いて来ました。私は自分に、決して遅れてはならない、と言い聞かせながら、弟の手をしっかり握りました。
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