≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(18)「苦難の逃避行」

義勇軍兵舎

 日が沈み、周りは暗くなり始めましたが、前方にはまだ何の建物も見えず、至るところ林でした。大隊を率いる人が、今晩早いうちに目的地にたどり着くために、道を急ぐよう、皆を励ました。

 皆も暗くなるにつれて、緊張感が増し、歩くスピードを上げました。全員本当に頑張り、知らない内に又1つの山に登りました。その山頂から下りれば目的地だそうです。ただ、暗闇の中では何も見えず、かすかに話し声が聞こえるだけでした。坂を下るとき、私たちはいっそうスピードを上げました。

 兵舎に着いてみると、団長たちがすでにそこにいました。団長たちは牛馬と車両を連れて、別の道路を通って来たのでした。団長たちも着いたばかりだそうですが、急いで夕食の準備にとりかかりました。

 ここは他から来た人たちも受け入れているようで、壁に「閻家屯」「和盛屯」「武蔵野水田班」などと書かれていました。「開拓団本部」から来た私たちは、全員が一番前の細長くて大きい建物に入りました。その建物の壁にはすでに各家の名前と場所が書かれていましたが、五十音順に並んでいたので、私の家族は入り口を入って一番手前で、その隣が石原おばさんでした。

 その建物の中は大会議室のように広くて、両方の壁側に麦わらが敷かれており、人が通れるよう、真ん中が空いていました。人はこの真ん中の空いたところを通って出入りするということです。夜寝るときは頭を壁側に向けて、小さな木切れを枕の代わりに使いました。私は母に小さい声で、「私たちの家は入り口に近いから、奥の人たちより出入りが便利ね」と言うと、母はすぐさま、「自分のことしか考えないのはだめ。皆が困っているときは、お互いに思いやり助け合わなければならない」と教え諭してくれました。私は自分が間違っていたと分かり、それ以来、そういった自己中心的な話は一切しなくなりました。母が語ってくれた物語の主人公は、もし共に困難を乗り越えようとしなければ、どうして生きてくることができたでしょうか。このような一つ一つの経験の中で、母は、困難に直面したとき、どのようにして正しい心を持ち続けるかということを私に教えてくれたのです。

 石原おばさんはここに着いてからすぐに夕食の支度をしに食堂に行きました。母も私たちのことを片付けると、私に弟たちの面倒を見ておくように言って、食堂へ手伝いに行きました。暫らくして、全員が庭に出て食事をしました。

 私たちが泊まった建物の外は平坦な空き地でしたが、ドアの入り口に明かりがいくつか吊るしてあるだけで、遠くは見えません。庭には教室にあるような机とイスが並べてあり、皆そこで食事をしました。何を食べているのか、はっきり見えませんでしたが、お腹が空いていたのでとても美味しいと感じました。

 今思えば、林の中をあちこち避難して回ったあのころは、条件が厳しく、食べ物も粗末で、後半になると、そんな粗末な食事すら口にできなくなりました。しかし、当時の私は、何を食べてもお腹をこわすことがなく、食欲がありました。年老いた今も、何を食べてもおいしく思い、ほとんど病気もしません。ひょっとしたら、あのころ偏食をせず何でも食べるという習慣が見についたおかげかもしれません。

 翌朝目が覚めると、私は急いで外に出ました。そこは、大きい樹々に囲まれており、数棟の平屋がぱらぱらと点在し、樹々に隠れて見えないようになっていました。裏山の麓に緑色のトラックが数台止まっており、トラックの後ろにはたくさんの牛や数頭の大きな馬がつながれていました。

(つづく)