≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(40)
当然、そのような恐ろしい経験をした後、私は冬の日に井戸に水汲みに行くのが怖くなりました。しかし、水は毎日使うし、そのうえ冬は川で洗濯することができないため、すべてに井戸水を使わなければならず、その水をすべて私が汲みに行かなければなりませんでした。
私が劉家にいた5年のうち、新富村から引っ越してからというもの、すべての水を私が自分の手で少しずつ運ばなければなりませんでした。初めは、養父が時々家に帰ってきたので、養父が家にいる数日間は、私の替わりに水がめを一杯にしてくれました。出て行くときも、すべての桶と鍋に水を一杯貯めてくれたのです。後に養父が戻ってこなくなり、すべて私が一人で担当しました。
その当時は、雪が降ると、私は大変に喜びました。私は中庭の内外に積もった雪を中庭の日陰の所に集めて積み上げました。叩いて固めておき、凍りさえしなければ、小さな穴から雪をかき出し、それを鍋で暖めて溶かして、洗濯や洗顔に使いました。その時は私は本当に水を節約して使いました。
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私の家は王喜蘭の屋敷の西の棟にありました。棟と棟は繋がっていましたが、それぞれに仕切られた庭がありました。
ところが、そんなとき、私が養母に最も嫌悪を感じ、受け入れがたかったことは、彼女が私によその家に行って「物の無心」をするよう言いつけたことでした。
私の家が河北の長安村に移ってからほどなく、土地改革が始まりました。隣の王慶図兄さんは、土地改革の民兵隊長で、毎日のように銃を背負っては行き来していました。王喜蘭のおじさんは、毎晩こっそりと養母を尋ねてきました。
あくる日の早朝、養母は食料を背負い、弟の煥国を連れて出て行きました。私は、養母がなぜそんなに早く出て行ったのかわかりませんでした。
外の雪はますます激しくなってきました。私はそのとき家で一人、本当に不安でした。普段、養母に折檻されたときは、養母のことを本当に恨みましたが、今日は彼女が可愛そうになり、吊るし上げられるのではないかと心配でした。
養母に乞食を強要される ほどなく、私の家は「富農」というレッテルを貼られ、家で値打ちのあるものはすべて「没収」されました。養父もまた自由を失い、仕事と収入がなくなりました。
私たちは北卡子門を出て、一路北に向かい、閻家村に着きました。空はいくらか明けていました。養母は私の手を引いて村の中に入って行きました。
養母は後についてくると、私の手からトウモロコシパンを二つとも取り上げました。
身売りの話 養母は私が変わったことに気がつきました。以前のように思い通りにはいかなくなったのです。