≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(48)「慈悲深い養父と孫おじさん」

身売りの話

 養母は私が変わったことに気がつきました。以前のように思い通りにはいかなくなったのです。そこで、私を邪魔者扱いするようになり、養父にも私にも内緒で、私をトンヤンシー(※)として他家に身売りに出そうとしたのです。彼女は一旦このような悪智慧が働きだすと、すぐに行動に移すタイプで、しかも目的を達するまであきらめませんでした。

 養母はまた娘を産みました。名前は、劉淑雲です。おしめを洗ったり、子供をあやしたりと、私の仕事が増えました。しかし、養母がわけもなく私を折檻したりさえしなければ、私は文句も言わずもくもくと働きました。

 ちょうどそのころ、私には学校へ行って勉強したいという強い思いが生まれました。その年の秋、沙蘭町の長安村に夜学ができました。主には大人の人向けで、学校に行ったことのない人たちに、教養を教えたり字を教えたりするためでした。

 そこへ私も申し込みました。晩だったので、養母も反対しませんでした。夜学には、私のような子供は一人もいませんでしたが、昼の学校に行く機会を与えてもらえなかった私にとっては、夜学でも十分満足でした。

 ほどなくして、養父が労働改造から解放されて家に戻ってきました。家に帰って、暮らし向きが苦しいのを見た養父は、山に入って畑を開墾しようと考えました。同郷人で友人の孫彰徳おじさんを呼んで来て相談しました。

 孫おじさんは、河北省にある養父の実家の親戚で、小さいときから一緒に育った「竹馬の友」でした。おじさんは、家が貧しく、嫁をもらうお金がなかったので、ずっと独り身でした。ある年、故郷が災害に遭って、孫おじさんだけが生き残ったので、東北で仕事をしていた養父の元に身を寄せました。

 養父と孫おじさんには共通点がありました。それは人柄が善良、温厚で、実直だということです。養父は普段口数は少ないのですが、一旦話すと、その話には重みがありました。私は養父の話す「道理」を聞くのがとても好きでした。

 私が養父のそばで暮らすことができたのは、類まれな善があったからだと思っています。養父は生母と似ていました。養母にもらわれ、生母が私の前からいなくなってからは、養父が私を潜在的に守り導いてくれたような気がしています。私が「劉家」にいた五年間で、養父と一緒に暮らした時間は長くないのですが、養父は私に中国の伝統的な道徳を教えてくれ、私はそこからずいぶん多くの大切なことを学びました。

 土地改革後、孫おじさんは独身で、加えて実直で仕事ぶりがまじめだったので、沙蘭区役所の食堂のコックに雇われました。

 孫おじさんは後に、私が災難に遭った時には、まるで実の父のように私を慈悲深く見守ってくれ、本当に感謝しています。ただ、残念なことに、養父も孫おじさんも、私が学校を出て就職するのを待たずして病死してしまいました。

 私が夜学で学び始めたその年の秋が過ぎたころ、養父は沙蘭鎮から少し離れた山の斜面に荒地を切り開いて、そこに掘っ立て小屋を建てました。養父は一人でそこに住み、毎日少しずつ荒地を耕していきました。そのうち冷え込んでくると、家へ帰ってくるようになりましたが、毎日朝早く出て行っては夜遅く帰って来ました。冬になると、人を誘って一緒に山に分け入って柴刈りをしました。一度出かけると数日帰ってこないこともありました。

 (※)トンヤンシー:中国、台湾では、息子が幼いうちに、将来の嫁にするために、幼い女の子を買い取る風習があった。買い取られた女の子をトンヤンシーといい、息子が成人するまでは貴重な労働力として家事等の労働を強いられた。幼い息子に対して成人女性を買い取り、将来の夫となる息子の世話をさせる場合もあった。

 (続く)

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その年の冬、新年が過ぎてまだ間もないころ、養母は買い手を見つけ、私を閻家屯の趙という家に「トンヤンシー」として高く売ったのでした。
その日の晩、養母と養父は蘭家後村の趙家の事を話し始めました。私にもかすかに聞こえてきたのですが、趙家は蘭家後村にあり、少なからぬ土地を分け与えられましたが、労働力が足りないので、養父に手伝いに来てほしいというのだそうです。
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