≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(58)

【大紀元日本2月1日】その頃、私は早朝と放課後にできるだけ家の仕事を手伝っており、李素珍おばさんはそんな私に大変満足していました。彼女はよく、仕事をしながら謝家のことや彼女自身の秘密をいろいろと話してくれました。ただ、私は当時まだ12歳で、大人たちのことはよく分かりませんでした。

 そのため、私はただおばさんの話を聞くだけで、それをあまり深く考えませんでした。謝家では毎日放課後にやらなければならない仕事が多かったのですが、少なくとも養母に殴られたり、罵られたりする心配もなく、心理的にはリラックスして、仕事に精を出すことができました。私は大人たちと同じように、朝早くから夜遅くまで仕事をしました。

 李素珍おばさんの話を聞いているうちに、私は養母が私を蘭家後屯の趙という家に売ったということを知りました。そこは、李おばさんの実の姉の嫁ぎ先でした。

 おばさんは私に、自分の身の上を話し始めました。彼女の両親は幼いときに病気でなくなり、兄弟三人だけになりました。姉の李素琴は、小さいときに蘭家後屯の趙家にトンヤンシーとして売られ、長男の趙玉宝の嫁になった人でした。

 おばさん自身もまたそのような運命からは逃れられず、お姉さんと同様、小さいときに謝家のトンヤンシーとなりました。謝家は彼女に小学四年生まで学校に行かせてくれたものの、ほどなくして口の不自由なおじさんと結婚させられました。

 趙家の両親もまた早くに亡くなったそうで、家には長男の趙玉宝とその嫁の李素琴、そして次男の趙玉恒がいました。彼らは私を身請けして、次男の趙玉恒の嫁にしようとしていたのです。

 私はこの事を知り、おばさんの身の上と境遇を連想するにつけ、心中不安になりました。

 私は学校に上がって勉強するようになってから、自分の将来に多くの希望を持っていました。弁護士になりたいと思っていました。

 ところが、今は中学にも行けなくなり、小学校卒業後は蘭家後屯に行かなくてはいけないのです。私はだんだんと前途が暗くなっていくかのように思いました。一時期は、本当に毎日どうしたものかと思い悩みましたが、私の身の上ではどこに行くこともかなわず、まるで難の中に落ちてしまい、いかなる希望も出口もなくなったかのように落ち込んでしまいました。一体全体、神様が果たして私を救ってくれるのだろうか、私にはまったく分かりませんでした。

 ほどなくして、謝おばあさんの親戚で、牡丹江で学んでいる高校生の張黎兄さんが夏休みで帰省し、謝おばあさんの家の手伝いに来ました。しばらくして、張黎兄さんの身の上に起こったある事が、私に一大啓発を与えてくれました。

 張黎兄さんの父親は、彼が生まれる前に亡くなったため、母親は彼を連れて関内の実家へ帰りました。その後、謝おばあさんは親子二人を関内の実家から東北に呼び寄せました。謝おばあさんが張黎兄さんを育てたということもあって、謝おばあさんは張黎兄さんのために無理やり談を決めました。

 ところが、張黎兄さんはそんなことには取り合いませんでした。普段は学校に寄宿し、沙蘭鎮には帰ってきません。学校が休みになると戻って来て、数日家にはいるのですが、家の人がくどくどと説教し、いろいろと圧力をかけても意に介さず、反駁もせず、ただ沈黙を守っていました。

 私は彼の態度とやり方がまるで、私を教え導いているかのように感じました。もちろん、当時彼は別に私に何かを教えようとしたわけでもなく、何か援助してくれたわけでもないのですが、彼の行動自体が私に災難からどうやって抜け出すべきかということを教えてくれているように感じました。

 それ以来、私は秘かに、自分も張黎兄さんと同じ道を歩もうと決心しました。彼のように、頑張って勉強して中学に受かり、沙蘭鎮を離れれば、トンヤンシーの境遇から逃れられると考えるようになったのでした。

 (続く)

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災難がついに到来 秋になると、養母は人に手紙を託して、私に一度帰るように促しました。我が家が新しい村に移ってから、私は一度もまだ帰っていませんでした。
私はとっさに、どうしたらいいか分かりませんでした。その場を離れようとしましたが、足が動きません。たとえ本当に逃げ出しても、彼らはすぐに追いつき、私を捕まえることでしょう。
私はなぜこのように冷静なのか分かりませんでした。養母はまだ私が逃げ出そうとしているのに気づいていないようでした。
私は養母が追いかけて来るんじゃないかと心配で、足を緩めることはせず、できるだけ速く走ろうとするのですが、走ればまた転んでしまい、全身泥だらけになりました。
このとき、私は急に弟の趙全有の家を思い出しました。私は養父に、河南の元々私たちが住んでいた趙源おじいさんの家へ行ったらどうだろうかと聞いてみました。
独りで身の拠り所を探す 養父は行ってしまい、私は一人残され、自分で沙蘭屯に入らなければなりませんでした。
風は次第に弱くなり、大雨もまた小ぶりになって、暴風雨が去ろうとしていました。夜が明けると、私は学校を離れ、川の南にある趙おばさんの家へ向かいました。
趙おばさんは、当時たしかに私を娘にしたいと考えており、何度も趙に改姓するよう言いました。ただ、私は趙になんか改姓したくありませんでした。