≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(61)
私はなぜこのように冷静なのか分かりませんでした。養母はまだ私が逃げ出そうとしているのに気づいていないようでした。私が居間に入って養父に挨拶したのは、私がただ自分の部屋に帰ろうとしているだけだと思ったようです。
このとき、養父が口を開き、養母と趙玉恒の話声が聞こえました。養父はやっと、養母が今晩私をここで過ごさせようとしているということが分かりました。そこで、養母と相談するようでいて、決然とした口調で、「なんでもっとゆっくりと話を進めないのだ。なぜそんなにあの子に無理強いするのか」と言いました。養父がそんな口調で養母に言うことはめったにありません。
養母はそれを聞くなり養父をなじり始めました。養父は、強制労働収容所から帰ってきてからは、ますます老いて衰え、家庭内の舵取りができなくなっていました。軽々しく養母の考えに反対するということがなくなりました。一旦彼女の機嫌を損ねると、際限なく養父をなじり続けるので、養父はがまんするしかなく、最後には折れてしまうのです。その結果、養母はますます横柄になっていきました。
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私はとっさに、どうしたらいいか分かりませんでした。その場を離れようとしましたが、足が動きません。たとえ本当に逃げ出しても、彼らはすぐに追いつき、私を捕まえることでしょう。
私は養母が追いかけて来るんじゃないかと心配で、足を緩めることはせず、できるだけ速く走ろうとするのですが、走ればまた転んでしまい、全身泥だらけになりました。
このとき、私は急に弟の趙全有の家を思い出しました。私は養父に、河南の元々私たちが住んでいた趙源おじいさんの家へ行ったらどうだろうかと聞いてみました。
独りで身の拠り所を探す 養父は行ってしまい、私は一人残され、自分で沙蘭屯に入らなければなりませんでした。
風は次第に弱くなり、大雨もまた小ぶりになって、暴風雨が去ろうとしていました。夜が明けると、私は学校を離れ、川の南にある趙おばさんの家へ向かいました。
趙おばさんは、当時たしかに私を娘にしたいと考えており、何度も趙に改姓するよう言いました。ただ、私は趙になんか改姓したくありませんでした。
大きな劫難がやっと過ぎ去り、私はまた絶望の中で再び謝家に戻りました。心を落ち着け身を寄せることのできるところが見つかり、流浪の日々で疲れた心
合格通知書が区政府に届き、区の教育担当助手が鐘家に報告に来てくれました。私は沙蘭地区の受験生の中でトップ合格でした。
第五章 中学の時、孫おじさんと唯一の弟を亡くす「出自が道徳規準に勝る」という困惑に初めて直面する 1954年、寧安一中がちょうど建設されました。