≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(62)

私は養母が追いかけて来るんじゃないかと心配で、足を緩めることはせず、できるだけ速く走ろうとするのですが、走ればまた転んでしまい、全身泥だらけになりました。そのとき、私は誰かが「淑琴、淑琴」と呼んでいるのをはっきりと聞くことができました。耳を傍立てて聞いてみると、それは養父が私を呼んでいる声でした。

 私は立ち止まりましたが、人影は見えません。そのとき一筋の雷光が煌き、養父が別の道から戻ってきているのが見えました。私はすぐに自分が間違った道に入っているのが分かりました。それは沙蘭に行く道ではなかったのです。なぜだかわかりませんが、心の中に急に何か鬱積したものを覚え、辛さで泣き出しました。

 養父は、私を追って出てきたのですが、姿が見えないので、闇夜で道を間違ってしまったのではないかと推測して、引き返してきたのでした。養父は、私の手を引き、道の脇の草の上を歩かせました。養父は背が高く、また私を引っ張る力も強かったので、私はもう転ぶことはありませんでした。私たちは、あっという間に閻家屯まで行くことができました。

 さらに進んで、閻家屯を出ると、路は広く、比較的歩きやすくなりました。養父は、私の手を引いてすたすたと歩き、途中何も話しませんでした。しかし、私はすでに気持ちが落ち着き、家を飛び出した時のように、養母が追いかけて来るんじゃないかという心配はもうありませんでした。そのときの養父は、なんとも大きく頼り甲斐があるように見えました。

 私たちはあっという間に沙蘭の西北の山上に着きました。山の下が沙蘭鎮です。養父は私に「どこへ行くつもりだ」と尋ねました。そのとき、私はやっと気がついたのですが、沙蘭鎮に行っても一体誰の家に身を寄せればいいのか。あのときは、一刻も早く趙家から出ることばかりを考えており、そこまで考える余裕はありませんでした。

 今、ほんとうにあの恐るべき環境から逃れ、沙蘭鎮に戻ってきたのです。しかし、こんな真夜中に一体どの家が私を受け入れてくれるでしょうか。謝家に帰っても、謝家と趙家は親戚なので、おそらく、趙家が人をよこして私を連れ戻すでしょう。養母が知ったら、趙玉恒を差し向けて私を連れ戻すに違いありません。

 私は足を止めて立ち止まりました。養父が私に「どこへ行くつもりだ」と問いかけたのは、養父自身そろそろ家へ帰らなければならない時間が来たということを意味していました。

 養父は誰に対してもひどいことをしたことがないし、養父にひどい仕打ちをしようとする人もいませんでした。ただ、彼は旧満州国の警察だったため、今は監視され、労働改造を受ける対象だったのです。養父の立場は、あのような良し悪しのはっきりとしない時代には可哀そうなものでした。彼は、居住地の村を離れるときには、必ず村のお偉方に事前に挨拶をしなければならず、勝手に村を出入りする自由はありませんでした。

 それなのに、養父はわざわざ私をここまで送り届けてくれました。闇夜は深まり、雨も激しく降っており、誰も彼が沙蘭まで来たことを知らないのですが、生真面目な養父は、私を沙蘭鎮まで送り届けると、すぐに閻家に戻ろうとしました。

 養父は、私にいい考えがないのを察して、「夜が明けたら、孫おじさんの所に行きなさい。おじさんに何かいい方法があるかもしれない。ひょっとしたら居場所を見つけてくれるかもしれない」と言いました。

 (続く)

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