≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(86)

一言では言い尽くせない高校での運命

 高校に上がった後、私は1年1組に配置され、関桂琴は2組でした。中学で同じクラスだった孟沢繁と関莉民も1組になりました。しかも、孟沢繁と私は同じ机になりました。

 孟沢繁の家は寧安鎮にありました。彼は後に、私の夫になりました。彼の父親は元、朝鮮中学校で中国語を教えていて、その後、寧安一中に異動になり、国語を教えていました。50年代の中国の教師は地位が低く給料もとても安いものでした。たかだか数十元で、一家7人を養うのは至難の業でした。孟沢繁には、上にお姉さんが一人、下には弟二人と妹一人がいました。家庭の生活は困難で、彼も三等奨学金を受けていました。

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はじめに: もし私が依然、普通の人と同じ考え方であったなら、八歳のときに家族と生き別れ、死に別れて以来、数十年にわたって心の中に鬱積しつづけた傷を解きほぐすことはできなかったでしょう。
なんの機縁か、英国南西端のケルト系の地、コーンウォール州の片田舎で一人娘アン(仮名)の子育てをすることになった。夫はイギリス人。日本企業は皆無。日本人といえば、国際結婚をした女性が数名。こんな環境で、私は日本語だけ、夫は英語だけを娘に使用するという、バイリンガル子育てが始まった。言語に留まらず、日英の文化の根本的な違いを痛感させられる18年間だった。
一言では言い尽くせない高校での運命 高校に上がった後、私は1年1組に配置され、関桂琴は2組でした。
文化大革命の間、王建校長はすでに異動していて、寧安一中を離れていました。
2004年に台湾の益群書店より『医山夜話』が出版された。これは、漢方医が患者と共にどのようにして多くの不思議な病を治したかを綴った実話集である。病気と聞くと、人々はよく病院での診断、治療、薬などを思い浮かべるが、人の心、道徳、正念、善行などが病と深く関係していると考える人は多くないだろう。
「21世紀は中国の世紀だ」と中国人は気負う。文明史的な視点から見れば、このことばは自惚れの嫌いがあっても、必ずしも過言ではないかもしれない。将来、歴史的事実として証明されるであろうが、中国の台頭およびその影響力の増強は人類文明史の必然のステップであり、歴史の発展の大趨勢である。