【東北再興】消えない傷跡(2)特別な人

【大紀元日本12月13日】災害直後は、多くの日本人や外国人のボランティアが沿岸の被災地に救援にきたが、そのほとんどは引き揚げてしまった。被災を免れた国内の他の地域、そして世界に、救援が今でも必要なことを呼びかけていくことが今後の課題となっている。

呼びかけに応え、滞在を決意した人もいる。 4月10日に京都から来た瓦忠(カワラ・チュン、31)は、バイクの修理工。一年分の食糧を小型トラックに積んで、石巻市にやって来た。破壊され破片が散らばった道路は、自転車での移動が最良だと聞いていたが、自転車の修理ができるボランティアはいなかった。

現地入りした瓦さんは、湊小学校避難所の片隅に店を開いた。当初は1日50台は修理していたという。泥沼を掘り起こしてやっと手に入れた自転車や、日本全土から寄付された自転車などが多かった。しかし、自転車のグリースや魚、悪臭を放つ泥を触った後、手を洗える水がなかった。6カ月で4000台の自転車を修理したと推定している。

瓦さんは、自転車の修理を通してと会話をしたと思っている。「ほんまにしんどい日々が続いてます。こんなに大勢の人に会って、こんなに大勢にサヨナラをしたことは今までなかった」泥まみれの校庭を歩き、残ったわずかなボランティアに手を振りながら、こう語ってくれた。この前日、最後の被災者12名が仮設住宅に入居した。小学校の再開が要されるからだ。

学校から出て通りを下ったところに、津波で押し流された家屋があった。ここで瓦さんは、年老いた自転車工の家の修理を手伝い、店が再び開業できるようにした。家はやっと生活できる程度の状態だ。瓦さんはここに寝泊まりし、自転車の修理店を営んだ。万が一のため、次の災害に備えてのコミュニティーのための緊急食糧の備蓄所となるまで信頼されるようになった。今でも日本の東海岸ではほぼ毎日の割合で余震が続いている。

瓦さんは、今回の体験は自分を変えたと語る。以前、問題だと思っていたことは、今から思うと何でもない。また謙虚の心も植え付けられた。

「今から思ったら、最初のころは自分を過信してたかも知らんですね」と当時を振り返る。彼の気持ちを一変させたのは、6カ月間に一度、一日だけ休暇のため京都に戻ったときだった。「家で、額に入った自分の写真とか玄関の靴とかを見たときに、石巻の人が何を失くしたか気がついたんですわ。どんな頑張っても被災者の気持ちを完全には理解出来へん。完全に解りあうのは諦めたけど、そのかわりもっと役に立とうと決めたんです」

瓦さんが地域のヒーロー的な存在になったことは明らかだ。建築作業員を退職された三浦ショウゴさん(78歳)は、自転車の交換部品ひとつひとつを、瓦さんが自腹を切って払ってくれたと、笑顔で教えてくれた。

「ボランティアはいっぱい来たけど、忠さんは特別。俺だけじゃなくて町の皆がありがたいと思ってる」と三浦さんは語り、瓦さんの写真はポスターサイズの大型判で新聞に掲載すべきだと付け加えた。

瓦さんはグラフィック・アーティストでもあり、彼が描いた看板が、町中の建物や新設の事業を飾っていた。瓦さんのコミュニティーへの貢献は、いろいろな形で現れている。

一年のボランティア生活の後で家に戻る予定かを尋ねたところ、瓦さんは、ためらうことなく「ここは離れられません」と答えてくれた。

(続く)

(記者・シンディ・ドルーキエ 現地取材協力・こだま たくや 翻訳・鶴田)