1分で読める故事成語(大紀元)

日本のゲーム産業は「井の中の蛙」【1分で読める故事成語】

【大紀元日本4月25日】

稲船氏「日本のゲーム産業は井の中の蛙、心を閉ざしている」(GameSpark、2012.3.8)

ゲームのキャラクターデザイナー・稲船敬二氏が、GDC(Game Developers Conference、ゲーム開発者会議)で、日本のゲーム業界は、すでに敗者となってしまったことを認めないが故に、悲劇的な運命に導かれていると述べ、「日本のゲーム産業は井の中の蛙のようになった、非常に心を閉ざしている」と主張したという。

「井の中の蛙」ということばは、『荘子・秋水篇』の次の下りから生まれたと言われる。

秋になり水かさが増えた黄河は、水を滔々とたたえて雄大に流れゆく。その壮大な景観を天下第一とうぬぼれる黄河の神・河伯(かはく)は、流れに沿って東に下り、北海に出た。すると、そこは果てしなく広がる大海原で、河伯は自分のこれまでの思い上がりに愕然とし、北海の神・若(じゃく)の方を見て嘆息した。

若は河伯にこう言った。「井戸の中のカエルに海のことを話しても分からない。なぜなら、自分の狭いすみかにとらわれているからだ。夏の虫に冬の氷のことを話してもしかたない。なぜなら、季節は夏だけだと信じているからだ。……今、あなたは大海を目にして自分の矮小さに気がついた。これで、一緒に大きな道理を語ることができるはずだ」

ここから、見識が狭く世間知らずなことを「井の中の蛙」と言うようになった。

ところで、『荘子・秋水篇』には、別の章でもう一つ「井の中の蛙」の寓話が出てくる。

井戸の中のカエルが東海の海亀に言った。「井桁の上を飛び跳ねたり破れ瓦の岸辺で休んだり、実に楽しい。水の中では蟹もおたまじゃくしも俺様にはかなわない。それに、水を独り占めにできるとはなんと愉快なことか」。すると、海亀はカエルに、「東海は言いようがないほどに大きく深い。大洪水や大干ばつがあっても、海の水は増えたり減ったりしない。東海はなんと楽しいところだ」と話した。カエルはそれを聞いて驚きあきれ、気を失ってしまった。

概略、このような話で、中国の人々にはこちらのほうが親しまれている。

(瀬戸)

関連記事
「類は友を呼ぶ」は、もともと気の合った者や似た者同士は自然に寄り集まるという意味ですが、後に、悪人が互いに手を結び、悪事をなす比喩としても使われるようになりました。
南宋の愛国詩人とされた陸游(りくゆう)は強硬な対金主戦論者であったため、官職を罷免され、故郷に戻りました。 ある日、遠足に出かけた陸游はどんどん先へと歩いていき、いつの間にか 人気が全くないところへ来てしまいました。斜面の上から見渡せば、前に川が流れ、山が立ち並び、すでに道がありません。
「顰みに倣う」の出典は『荘子』です。著者の荘子は道教の始祖の一人とされ、実は、『荘子』の中のすべての作品が荘子のものではなく、多くはその弟子や道教の者たちの作品です。
「投桃報李」は『詩経』「大雅・抑」から来ており、衛の第11代君主・武公が自分を励ますために作成した詩です。
「墨を金のごとく惜しむ」は、一筆もおろそかに書かない、あるいは、軽々しく筆を下ろさないことのたとえで、後に洗練の努める意として使われます。