神韻芸術団声楽家

独占インタビュー  神韻の歌姫 ソプラノ歌手・耿皓藍さん(2)

神韻声楽家の唱法が一般の歌手と異なるのはなぜですか?

私たちの唱法は最も古典的な発声法に基づいており、これは現代のベルカント唱法とは異なっています。今のベルカント唱法は、もはや伝統的な唱法ではないのですね。神韻の声楽家は古典的な練習方法を採用していますから、私たちの発声ポジションも異なるのです。この習得がとても難しいのは確かです。なぜなら、私たちは(イタリア語ではなく)中国語で歌うのですから。

世界で教授されているベルカント唱法が行き詰まっているのも確かです。100年前のイタリアオペラはすべて伝統的で古典的なベルカント唱法で歌われていました。ですが社会の流れが変わったことで、伝統文化や古典芸術もだんだんと失われてゆきました。そして今となっては、伝統的で正統派の唱法はもはや失われたに等しいのです。私が音楽大学で教わった唱法も現代のベルカント唱法でした。神韻に入団して初めて、自分の発声ポジションが間違っていることに気づいたのです。

神韻の芸術総監督は失われた正統派ベルカント唱法を正しく習得した音楽の大家です。私たちはこの総監督から最も伝統的で、正確で、最も初期のオペラ唱法をじかに教わりました。そして私たちは100年前の唱法を舞台でよみがえらせることができるようになったのです。

これまでの音楽人生を振り返ると、私は本当に幸運な人間だと思いますし、感謝の気持ちでいっぱいになります。そして観客のみなさんに精一杯の心を込めて歌を届けようと思わずにはいられません。オペラに親しんでいる多くの観客が私の歌声を初めて聞くと、これまで聴き慣れた歌声と唱法が違うことに気づかれると思います。でもこの古典的なベルカント唱法はすぐに皆さんに受け入れられていますね。

―歌声はその人の内面を映し出す鏡のようなものだと例えられますが、この言葉をどのようにとらえますか?

私が思うに、歌うことは、歌い手の心の中やその世界観を聴く人に理解してもらうのに、とても直接的な方法ではないでしょうか。ここ数年来、神韻の公演で私は幾度もこのような体験をしました。以前の私は、どうすればもっとうまく歌え、もっとクリアな表現ができるようになるか、歌をどう解釈するか、観客を感動させるにはどうすればよいかを常に考えていました。

神韻に入団することは、私の芸術人生にとって大きなターニングポイントで、一種の飛躍といったところでしょうか。法輪功の修煉を通して自分の精神性を向上させ、さらに年間100以上のステージからなる世界ツアーに参加したことは、人生で最も得難い貴重な体験だと思います。私がずっと追い求めてきた芸術の真の意義について新たに考えさせられました。自分が平穏で、穏やかな気持ちで歌うと、以前よりもっと多くの聴衆に感動を与えられることに気づいたのです。ですから私はもう、以前のように人を感動させることに必死になってはいませんし、他人からの評価も気にならなくなりました。これは、修煉をするようになって一番変わった点ですね。

―修煉によってもたらされたあなたの変化を、私たちに共有させていただければと思います。この修煉という概念をあなたはどのように理解しているのでしょうか。

子供のころ、祖父と祖母が法輪功を学習していました。祖母は以前体の調子が悪く、毎日十数種もの薬を服用していたのですが、修煉を始めてから見る見るうちに症状が改善され、1~2カ月たつとすっかり健康になったのです。もちろん薬とは縁が切れました。そのころ、法輪功は中国国内で爆発的な広がりを見せていて、たくさんの人が修煉を始めていました。ですからその後、中国共産党が法輪功の弾圧を始めた意味が、私には全く分かりませんでした。子供時代に理解した修煉の意味は、私の心の奥深くで深い根をおろしました。それは、いついかなるときでも「真・善・忍」の原則に従って、自分がよりよい人間であろうと努力するというものでした。成長して海外に出て、自由な環境の中で逮捕される恐怖から解放され、自分の求めるものを簡単に選択できるようになりました。

人はみな、人生の意義についてそれぞれの考えを持っていると思います。社会で名をあげ、ひとかどの人物とみなされることは人生の目的の一つでしょうし、刹那的な楽しみを追い求めることもそうでしょう。私の場合、これまで多くの宗教も指摘しているように、次のように考えています。人体は得難いもの(注)で、本物の大師と正法に巡り合うことは更に難しいことです。こうした機会は数千年、あるいはもっと長い時をかけてしか巡り合うことができないかもしれません。修煉において、己の道徳を高め、欠点を改めると、人は人間という次元から抜け出し新たな境地に達することができます。これこそがこの世に生まれてきた意味だと思うのです。

私が歌う数多く歌曲の歌詞には、まさにこの道理が説かれており、人生の目的や私たちがなすべきことがつづられています。もし私が修煉者でなければ、こうした歌詞に込められている意味を表現することはできなかったでしょう。

(つづく)

(翻訳編集・島津彰浩)