厳しいけど子供たちは優秀に

清朝皇帝の中で一番の教育熱心 康熙帝(こうきてい)の子育ての極意

清朝の最盛期を打ち立てた賢帝として知られる第四代皇帝・康熙帝(こうきてい)。当時の文献から、彼が大変教育熱心だったことが分かっています。康熙帝の教育方針は、中国歴代のどの王朝を見渡しても、類似するものが見当たらないほど稀有なものでした。

康熙帝には35人の息子と20人の娘がおり、孫は97人にも上るほどの大家族がいました。彼の教育方針は、まず第一に自らの言動で教え導くことです。
例えば、彼が狩猟や巡視に出かけるときは子供たちを引き連れ、共に行動して問題解決力と行動力を養わさせるようにしました。また、戦に出る時には皇子や皇孫を随行させ、共に戦況を見て作戦を実施しました。そして、康熙帝が重視したもう一つの教育は、勉学です。

清朝では、皇子や皇孫の学習する場所は「上書房」と呼ばれていました。康熙帝の時代、上書房は「暢春園」という庭園に設けられ、「無逸斋」と名付けられた学び舎で、康熙帝の子や孫たちは、その名の通り「無逸に(楽をせずに)」、日々勉学に励みました。1984年に出版された『康熙起居注(康熙帝の日常生活)』を始めとする一部史料には、彼らがどのように学習していたかが具体的に記されています。

毎日15時間の授業 「120回、暗唱して習得する」

ある一日をご紹介します。

午前4時、まだ夜も明けきらないうちから子供たちは無逸斋に集まり、一日が始まります。6時までの2時間は、前日に学んだことを復習します。

午前6時、満族語の教師と漢族語の教師が無逸斋に到着。決められた礼拝の挨拶を終えると、教師らが子供たちの学習の進捗状況を確認します。本を暗記させますが、少しの間違いも許されません。それが終わると、教師は子供たちに次の課題を与え、引き続きその部分を朗読させ、暗記させます。

午前8時、子どもたちは康熙帝の到着を待つために、無逸斋の石段の下に集まります。康熙帝は朝議を終えると、子どもたちの授業を確認するために、すぐに無逸斋にやってきました。康熙帝は席に着くと、書籍の中の一部分を無作為に選んで、子どもたちに暗唱させます。

康熙帝は、言いました。「私は子供のころ、本を見ながら朗読を120回やったあと、さらに暗唱を120回繰り返してそれらを完全に習得した。それが終わると次の部分に移り、また同じように少しずつ学習を進めていった」。そして、皇子たちにも、かならず120回暗唱するようにと命じました。確認が終わると、康熙帝は皇帝としての職務に戻っていきました。

午前10時からは書の時間となり、漢字一文字につき、100回書いて練習します。

正午になると、昼食が運ばれてきます。教師は自分の席で食事をとり、皇子たちは別の場所で食事をとります。食べ終えても休みはなく、すぐに授業を再開します。皇子たちは授業中、暑くても扇であおぐことも許されず、終始襟を正して真摯な態度でいることが求められました。

午後2時、外でやぶさめや武芸の稽古をします。

午後4時、康熙帝が再度やってきました。皇子たちを一列に並ばせて、一人ずつ暗記したものを暗唱させます。

午後6時、無逸斋の外で弓矢の練習です。皇子たちが先にやり、それから師匠数人がやってみせ、最後に康熙帝も手本を見せます。弓矢の練習が終わると午後7時。これでこの日の学習は終わりです。

早朝4時から夜7時までの15時間、昼食をとる時間を除いて、ほぼ休憩なしで学び続けました。一日だけならまだしも、彼らはこれを毎日繰り返していたのです。

康熙帝がどれほど教育に熱を入れていたかがわかるエピソードです。その甲斐あって、康熙帝の子や孫たちからは優れた人材が数多く輩出されました。

康熙帝の次に帝位についた雍正帝、康熙帝の孫である乾隆帝の治世は、康熙帝時代と合わせて清朝の最盛期であるといわれています。

また皇子の胤祉(いんし)はすぐれた学者となり、『古今図書集成』一万巻を編纂しました。芸術面で秀でた皇子も多く、あるものは書で、あるものは絵画で名を上げました。康熙帝の子や孫の中から、遊び呆けて一生を終えた者や、悪事に手を染めた者が一人も出ていないのも、特筆すべき点です。

(翻訳編集・島津彰浩)