さわやかな初夏。目に映る自然は、例年と変わらず美しい。
▼天下。つまり天の恵みの下に、人間の平穏な日常がある。一方、天に仇なすものには、必ず天罰が下る。まことに明快な理だが、北京の中南海にいる不遜の輩には分かるまい。その点、日本人は良い。なにしろ太陽神を国旗と仰ぐ国柄なのだから。
▼小欄の筆者は古典が好きだが、ふと気がついて、自分の長年の誤読を恥じることもある。松尾芭蕉奥の細道』で、芭蕉が門人の曽良(そら)を連れて、東北への羇旅に立ったのが「弥生も末の7日」つまり元禄2年(1689)旧暦3月27日で、新暦5月16日に当たる。331年前の今日なのだ。
▼冒頭にある「上野谷中の花の梢、またいつかはと心細し」は、口語訳では「上野や谷中の桜が咲いている梢を、いつまた見られるかと心細くなる」でよい。しかし芭蕉は、本当に「そこに咲いている桜を見ながら」江戸を出発したのだろうか。
▼筆者は、以前から「桜を見ながら出発」と理解していた。小欄3月18日も、その認識で書いてしまった。今のソメイヨシノと違って、江戸の桜は5月中旬に咲くのだろうと思い込んでいたのだが、やはりその季節感はおかしい。芭蕉は、ここで桜を見てはいないのだ。
▼キーワードは「心細し」。旅先での客死も覚悟した芭蕉は、心中「江戸の桜を、生きてまた見られるだろうか」と思ったのだ。人の世は無常であり、命は有限で儚い。令和2年の今、筆者は特にそれを思う。例年5月の三社祭は10月に延期。浅草の祭り好きに「中止」の二文字はない。さあ東京、元気を出そう。