【紀元曙光】2020年8月30日

(前稿より続く)裏表の二面性をもつ中国人は、家の使用人をはじめ、山ほど見てきた。
▼ただ、ラルフ・タウンゼントは、本当に心から友情を交わせるような「良い中国人」には、出会えなかった。しかし、中国人を嫌いながらも、彼は中国人を見つめ続けた。そうして価値ある書籍を遺した彼は、中国人と切っても切れない縁があったに違いない。
▼本邦の夏目漱石が、朝鮮から満州を訪れたのは明治42年(1909)であった。その旅行記である「満韓ところどころ」は朝日新聞の連載として世に出たが、なんとも気の抜けたサイダ―のように弛緩した文章で、小欄の筆者には面白くも何ともない。
▼だが、旅中ずっと胃痛をかかえた漱石は、計算の上で、わざと退廃的な色調にしたのではないか、とも思う。漱石が作品中に描く中国人も、今日ならば使用しない表現もふくめて、旅行者の冷たい目を通したものになっているようだ。
▼漱石の乗った船が大連の港に着いた。「河岸の上には人が沢山並んでいる。けれども其の大分は支那の苦力(クーリー)で、一人見ても汚らしいが、二人寄ると猶見苦しい。こう沢山かたまると更に不体裁である」。
▼奉天(現、瀋陽)の街で、足に重傷を負った老人と、それを周囲から見ているだけの群衆に出くわし、不快感を覚える漱石。「馬車に引かれたのだそうですと案内が云った。医者はいないのかな、早く呼んでやったら良いだろうにと間接ながら窘めたら、ええ今にどうにかするでしょうという答えである。(中略)宿の玄関へ下りた時は、漸く残酷な支那人と縁を切った様な心持がして嬉しかった」。(次稿へ続く)